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政教分離原則の根本的再検討を
東京大学名誉教授・小堀桂一郎

2021.07.06
(www.sankei.com/article/20210709-IYZFWYZ6YVO6PLMSKNGYW4WDUA/ )

那覇市の松山公園にある孔子廟
那覇市の松山公園にある孔子廟


≪「孔子廟訴訟の違憲判決


去る2月24日に最高裁大法廷は那覇市の孔子廟が市の公有地を一時期無償で貸与されてゐた事の是非をめぐる住民訴訟の事件に対し憲法20条3項<国及びその機関は…いかなる宗教的活動もしてはならない>との禁令に違反する事例として違憲の判決を下した。


爾来(じらい)4箇(か)月が経過し、この判決に対する主要日刊紙や諸言論機関の論評も出尽くした様に見え、判決は大方の肯定的評価を以て定着するものと考へられる。

筆者の所見も結果としては最高裁判決とほぼ同じ結論になるのでここに敢へて異見を立てる心算は無い。


只(ただ)、判決の正文全篇及び最高裁広報課による解説を入念に読んでみた上で言ふ事だが、この事件にはかなり特殊にして複雑な附帯事情が纏(まつわ)りついてをり、其(そ)の事情の細部に敢へて法理を以て是非の決着をつけるとならば最高裁の如(ごと)き判断にならざるを得まいと思ふ。


抑々(そもそも)原告の訴訟動機に<そこまで言はずとも>とでも評すべき徹底的な合法性追求への執念がありそれに然(しか)るべく応へざるを得なかつた結果がこの違憲判決となつたのではないか、との印象が強い。


所でこの様な特異な事例が政教関係訴訟への違憲判決として後世に残る事への危惧も小さいものではない。

各種の報道媒体が夫々(それぞれ)の独自の見地から判決への評価を記事にしてゐるため、この判決が政教分離原則を極めて厳密に適用した結果なのか、或(ある)いは14対1の反対意見も適切に紹介されてゐる点から見ると、むしろ該原則を緩やかに適用してもそれにも拘(かかわ)らず違憲とされたのか、その点も一般にとつて解(わか)り易(やす)い判決ではない。


政教関係訴訟の判断基準としてよく知られてゐる目的効果基準についても先行判例としての僅かな言及はあるが、この基準自体を審理に適用してゐるわけではなく、漠然と<社会通念に照らして>当該施設の<宗教性…の程度も軽微とはいえない>との論拠で違憲判決が下されてゐるかに見える。


合憲と違憲の岐れ目は


これでは今後もなほ生ずるであらうこの種の政教関係訴訟に対し合憲違憲の岐(わか)れ目は事例の宗教性の濃淡にあり、その黒白の中間部のどの辺に一線を引くかは各裁判官が宗教といふ人間の精神活動を如何(いか)なるものと把握するかに懸つてゐると暗示してゐるに等しい。


そこでこの判決に接する我々としては、
憲法の保障する信教の自由
禁止する所の国の宗教的活動
といふ時の「宗教」とは人間の如何なる精神活動を指してゐるのか改めて根本的な考察と定義を要求したくなる。

法曹界のみならず、知識人社会一般に対してもこの要請は向けられてよい。


折から中学校段階の歴史教科書の新版刊行が話題となつてゐるが一時検定不合格で却(かえ)つて注目を浴び、やがて合格に漕ぎつけて市販本も刊行された『新しい歴史教科書』(自由社)を例にとつてみると、輓近(ばんきん)の学界の動向を忠実に反映して我が国の縄文時代の文化の記述が至つて丁寧なものになつてゐる。

其処(そこ)では宗教のおこりは自然の恵みへの畏敬と祖先への感謝の心にあると明記し、その脈絡で
・我が縄文時代に既に太陽崇拝の神殿があつた事
・食用植物の豊作と魚介類の豊漁を祈念する祭祀さいしの痕跡が認められる事
を遺跡発掘の実績を以て紹介してゐる。


日本人の宗教心の起源が縄文時代の文明の内にある事を普通教育の教科書が明記したのは或る意味で劃期的(かっきてき)な事である。


まつりごとの意味は


この慶事の背景には言ふまでもなく近年の考古学的遺跡発掘の包括的且(か)つ精密な学術情報の整理、出土品に対する形態学上の解釈の進歩、人類学の視点からしての形態意味解明の驚くべき成功の実績がある。

其等に依(よ)れば、集落の住居址の発掘からは縄文時代人が既に立派な葬送と祖霊崇拝の文化を有してゐた事が判明した。


又、先史時代の物的資料として学界の研究対象となつて以来130年余り、その作因も用途も不明だつた奇怪な形状の土偶が、実は食用植物や漁撈(ぎよろう)の収穫たる魚介類を模して作られた一種の祭具であるとの明快な説明も為(な)された(竹倉史人『土偶を読む』)。


最近の学説の更なる紹介は紙面の制約上できないが、結論のみを言へば、縄文文化は現代の我々と同じ日本人の歴史のうちであり、その時代に我々の先祖は自然の恵みへの感謝と自己の現存在の原因としての祖先の崇拝といふ宗教を有してゐた

そこで人々の営む祭まつりは現代の祈年祭や新嘗祭にいなめさいの前身であつた

その祭を行ふ祭祀共同体村落の、そしてその集合が国家起源であり、成員を世界観の上で統合し相互に和合せしめる作業がまつりごとであつた


日本人の宗教心と実生活に於けるその発現様式である祭祀には以上の如く約5千年の沿革がある

一方西洋近世に於ける国家と教会の覇権争ひの妥協の所産たる政教分離の思想が輸入され法制に位置を占めた歴史は漸ようやく70年余である

此(こ)の事実を念頭に置いて考へてみれば、宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。(こぼり けいいちろう)



家の中に先祖を祀る仏壇があるのは日本だけ
(natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-611.html )


「政教分離」の原点は、政治が特定の宗教によって行われることを禁じた、あるいは政府が特定の宗教活動をすることを禁じたもので、それはすなわち国民の宗教の自由を謳ったものです。

つまりはキリスト教の分派、イスラム教の分派など、宗教対立のあった、あるいは今尚ある国の話であって、八百万の神々を祀る日本の歴史においては、瞬間的な切支丹弾圧を除いて、関係のない話なのです。

このブログで度々書いていますが、「ドイツのメルケル首相はドイツキリスト教民主同盟の党首」です。

アメリカではオバマ大統領を除いて、歴代大統領が就任式で『聖書』に手を乗せて国家への忠誠を誓っています。

日本でも日蓮宗の分派になるでしょうか、創価学会が、公明党を国会に送り込んでいますし、弱小ながら仏教を基に世界中の宗教から宇宙論までゴチャ混ぜにした幸福の科学の幸福実現党なんてのもありますね。

だからといってそれらの政党は、有権者にその宗教を強制したり勧めたりはしていませんし、してはならないのが「政教分離」であって、メルケル首相(キリスト教全般)やプーチン大統領(ギリシャ正教)やバイデン大統領(カトリック)が教会のミサに列席したり、公明党の山口代表が法華経を唱えたりするのを、禁止するものではありません。

それなのに、この八百万の神々の国、日本の、総理大臣が靖国神社にお参りしたりすると大騒ぎするのは、一体、なんなんでしょうかね?!(笑)

イスラム教スンニ派の絶対君主制であるサウジアラビア、あるいはイスラム教シーア派の法学者が統治するイランなどは「政教一致」の国家です。



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