◆ 日本は東アジアの一員じゃない (1) 東の天皇、敬みて西の皇帝に白す [ ◆ 日本は東アジアの一員じゃない]
われわれが背負う歴史の本質とは何か
近代日本の宿命、その終わりなき苦悩
「孤立」を強さに
―自画像を描き直すときが来た―
高崎経済大学教授 八木秀次
別冊『正論』EXTRA. 03 (2006年) より
(1) 「家族をもたない」日本文明
「日本」は家族をもたない文明である。
『文明の衝突と世界秩序の再編』(邦訳 『文明の衝突』)の著者サミュエル・ハンチントンは、199年に発表した『21世紀における日本の選択』 ―世界政治の再編成― と題する論文において、文化と文明の観点から見た日本の特徴を、このように述べている。
ハンチントンが日本を「家族をもたない文明」と位置づけるのはこういうことである。
周知のようにハンチントンは、世界を8つの主要文明 ――
① 西欧文明
② 東方正教会文明
③ 中華文明
④ 日本文明
⑤ イスラム文明
⑥ ヒンドゥー文明
⑦ ラテンアメリカ文明
⑧ アフリカ文明
―― からなると指摘する。
これらの文明のうち、日本文明以外の他のすべての主要な文明には、複数の国が含まれる。
日本は東アジアの一員じゃない
(中略)
日本はそもそも「孤立した国家」である。
しかし、これこそが日本の何よりの強みでもある。
今日ほどこのことの意義を深く自覚することが求められているときはないように思われる。
家族を持たない孤立した国家であると深く自覚したとき、我が国の本来的な「孤立」は一転して「強さ」に変わる。
これまで我が国はアジアの一員であり、西側社会の一員であると自らを位置づけてきた。
そしてこのような自画像から、一方で「アジアの一員」としてアジアの中で孤立することを恐れ、近隣諸国に対して屈辱的なまでの卑下外交、謝罪外交を繰り返してきた。
他方、「西側社会の一員」としてグローバリゼーションに身を委ね、グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードに無理にも自らの体を合わせようと「構造改革」「体質改造」を行おうとしている。
しかし、このような自画像はそもそも間違っているのではなかろうか。
我々は「アジアの一員」ではない。
「西側社会の一員」でもない。
日本文明」という独自の文明を構成する、ただ一つの国、これが日本なのだ。
このようにハンチントンの示唆によって我が国の自画像を描き直してみるとき、私たちにはこれまでとまったく違った世界像が見えてくる。
アジアにおける孤立も、西側社会における孤立も、これはそもそも運命づけられているものだと合点してみたとき、孤立を恐れる気持ちは遠のいていく。
そして冷静沈着に我が国の国益という立場から外交戦略を描いてみせることができる。
実はハンチントンの示唆を俟つまでもなく、我が国の文明的「孤立」を一転して「強さ」に変えてみせた先達がいる。
遠く飛鳥の時代の皇族政治家・聖徳太子がそうである。
推古天皇15年(西暦607年)7月、聖徳太子はシナ大陸を統一した隋に第二回目の遣隋使として小野妹子を遣いに出した。
このとき小野妹子は隋に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という国書を差し出した(奉呈は翌年3月)。
当時の隋の皇帝・煬帝はこれを尊大であるとし、
「悦(よろこ)ばず」、
「蛮夷の書、無礼なる者あり、また以て聞(きこ)するなかれ」
と強い怒りを示したと『随書』倭国伝は伝えている。
こんな無礼な国の外交文書は二度と自分に取り次ぐなとの意味である。
煬帝が怒ったのには理由があった。
煬帝の先代・文帝は589年、南朝の陳を滅ぼし、晋(西晋)が滅びてから約250年ぶりにシナ大陸に新しい統一国家を樹立した。
隋の建国とともに高句麗と百済は直ちに朝貢し、高句麗王は遼東郡公に、百済王は帯方郡王に、それぞれ任命された。
ただし、高句麗は隋が陳を滅ぼしたと聞くと直ちに防備の体制を固める。
大陸に統一国家ができると次には自国が侵略をうけるということを経験的に予測していたからである。
これを知った文帝は激怒し、高句麗王に詰問状を送り、恫喝した。
高句麗王は詫びを入れたが、本気で随に臣従する気はなかった。
新羅は三国の中では一番遅れて朝貢し、楽浪郡公を認められた。
新羅はその後は高句麗と対抗するために、隋に支援を求めた。
文帝が死に、604年、煬帝があとを継ぐ。
高句麗を挟んで隋と新羅との提携が次第に強まっていった。
煬帝はシナの皇帝の中で最も悪名の高い人物の一人であった。
こんな話が伝わっている。
トルコ系の東突厥は隋に降ったが、啓民可汗(王)が諸部族の長を集めて煬帝の到着を待っていると先遣の将軍がきて、天幕の前に草が茂っているのは見苦しいと言った。
可汗(王)は刀を抜いて自ら草を刈り、貴族以下すべての者が争ってこれに倣った。
東突厥と友好関係にあった高句麗の遺臣はその場に居合わせ、可汗(王)以下の貴族が草むしりをさせられるのを見ていた。
この遣臣に煬帝は高句麗王に速く朝貢に来るように伝えよと侍臣を通じて言った。
帰順すれば啓民可汗と同様に待遇する。
朝貢しなければ突厥の兵を先鋒に国土を蹂躙する。
しかし、帰順すれば啓民可汗と同様に待遇すると言われても、それは屈辱的な草むしりの強制に耐えることでしか ない・・・。
小野妹子が前記の国書を隋に奉呈したはちょうど煬帝が高句麗遠征の準備をしていたときのことであった。
東西を日の出と日没によって表現するのは世界的に広く認められた語法である。
しかし、「日出づる処の天子」と「日没する処の天子」と対比的にに書けば、単に東西の方角にとどまらない響きを持つ。
それに「天子」というのは皇帝の別号である。
光り輝く天の絶対的支配者という意味の称号が皇帝であり、その別号が「天子」である。
「王」というのは皇帝の臣下の中のトップの称号ではあるが、あくまで皇帝に臣従する者でしかない。
煬帝も隋の皇太子となる前は晋王の地位にあり、二人の弟は蜀と漢の王として地方にいた。
「王」とは皇帝に隷属する地方長官の名にすぎない。
周辺諸国の国王は内政に関しては自治権を委ねられているが、定期的な朝貢を義務づけられ、シナ皇帝が決めた元号を強制され、時には出兵を強いられた。
朝鮮半島の支配者もシナの皇帝に朝貢し、あらためてシナ皇帝から「王」の称号をもらっている。
当の我が国にしても五世紀の後半まではシナ皇帝に臣従しており、『宋書』倭国伝に登場する倭の五王、すなわち讃・珍・済・興・武は倭王もしくは倭国王と呼ばれるあくまで「王」という存在であった。
それがここに来て、日本が君主号として「天子」を使った。
繰り返すが、「天子」とは皇帝のことである。
中華思想によれば世界の君主は「皇帝」を名乗るシナの支配者のただ一人であって、その権威に拮抗する「日出づる処の天子」など、そもそもあってはならない存在であった。
聖徳太子の親書は「中華」的世界観への真っ向からの挑戦であった。
東突厥の王に草むしりをさせるような煬帝が激怒したのは当然であった。
煬帝が日本の傲岸さに立腹して兵を差し向けてくることも当時としてまったく考えられないことではなかった。
現に煬帝は2年後に一万余の兵をもって南海の「流求」を攻撃させ、住民一万人以上を拉致している。
聖徳太子や周辺の者も危険は承知していた。
ただ、隋が日本を攻めるにしても、隋は日本に関する情報をほとんど持っていない。
必ず偵察を兼ねた使節の来日が前提となる。
外交戦略はそのときもう一度練り直しても遅くはない。
かつての倭の五王のようにシナの皇帝に朝貢して何がしかの肩書きをもらっても、それは新羅と日本を同列に置くことでしかない。
隋と連携関係にある新羅を討つには、敢えて隋と対等の立場に立つ決断が必要である。
このように判断したのである。
案の定、煬帝は裴世清以下 13人を帰国する小野妹子に同行させ、日本がその意気高遠であることを怪しんで国風を調べさせた。
日本が新羅と百済に影響が強い国だと聞くから高句麗征伐を妨害されても困るので国情偵察かたがた慰撫しておく必要があると考えたからである。
608年9月に裴世清一行が帰国するとき、小野妹子は再び答礼の大使として一緒に海を渡った。
そのとき彼が持っていった国書は「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に曰す」で始まり、簡単な挨拶が続くものであった。
東の天皇と西の皇帝。
今度は天子と天子、皇帝と皇帝でぶつけなかったが、天皇も皇帝に匹敵する称号である。
天子と名乗ったことで激怒されたが、冊封体制下の「王」に逆戻りするつもりはない。
そこで使ったのが「天皇」という称号であった。
遣隋使の第一回目は西暦600年である。
我が国は隋がシナ大陸の統一を成し遂げるや間髪を入れずに外交交渉を始めるのである。
そして隋の二代目皇帝・煬帝が践祚するや対等な外交関係を結ぶべく二度にわたって国書を提示する。
二度の国書は日本が自立した王権であることを宣言したものであった。
自らシナ皇帝と対等な「天子」を称し、次いで「天皇」という称号を採用することによってシナ皇帝には臣従しないことを宣言したのである。
近隣諸国が次々にシナ皇帝に臣従し、シナ文明圏( 「中華」文明圏)に組み入れられる中、我が国は敢えてそこからの政治的自立を宣言したのである。
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近代日本の宿命、その終わりなき苦悩
「孤立」を強さに
―自画像を描き直すときが来た―
高崎経済大学教授 八木秀次
別冊『正論』EXTRA. 03 (2006年) より
(1) 「家族をもたない」日本文明
「日本」は家族をもたない文明である。
『文明の衝突と世界秩序の再編』(邦訳 『文明の衝突』)の著者サミュエル・ハンチントンは、199年に発表した『21世紀における日本の選択』 ―世界政治の再編成― と題する論文において、文化と文明の観点から見た日本の特徴を、このように述べている。
ハンチントンが日本を「家族をもたない文明」と位置づけるのはこういうことである。
周知のようにハンチントンは、世界を8つの主要文明 ――
① 西欧文明
② 東方正教会文明
③ 中華文明
④ 日本文明
⑤ イスラム文明
⑥ ヒンドゥー文明
⑦ ラテンアメリカ文明
⑧ アフリカ文明
―― からなると指摘する。
これらの文明のうち、日本文明以外の他のすべての主要な文明には、複数の国が含まれる。
日本は東アジアの一員じゃない
(中略)
日本はそもそも「孤立した国家」である。
しかし、これこそが日本の何よりの強みでもある。
今日ほどこのことの意義を深く自覚することが求められているときはないように思われる。
家族を持たない孤立した国家であると深く自覚したとき、我が国の本来的な「孤立」は一転して「強さ」に変わる。
これまで我が国はアジアの一員であり、西側社会の一員であると自らを位置づけてきた。
そしてこのような自画像から、一方で「アジアの一員」としてアジアの中で孤立することを恐れ、近隣諸国に対して屈辱的なまでの卑下外交、謝罪外交を繰り返してきた。
他方、「西側社会の一員」としてグローバリゼーションに身を委ね、グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードに無理にも自らの体を合わせようと「構造改革」「体質改造」を行おうとしている。
しかし、このような自画像はそもそも間違っているのではなかろうか。
我々は「アジアの一員」ではない。
「西側社会の一員」でもない。
日本文明」という独自の文明を構成する、ただ一つの国、これが日本なのだ。
このようにハンチントンの示唆によって我が国の自画像を描き直してみるとき、私たちにはこれまでとまったく違った世界像が見えてくる。
アジアにおける孤立も、西側社会における孤立も、これはそもそも運命づけられているものだと合点してみたとき、孤立を恐れる気持ちは遠のいていく。
そして冷静沈着に我が国の国益という立場から外交戦略を描いてみせることができる。
実はハンチントンの示唆を俟つまでもなく、我が国の文明的「孤立」を一転して「強さ」に変えてみせた先達がいる。
遠く飛鳥の時代の皇族政治家・聖徳太子がそうである。
推古天皇15年(西暦607年)7月、聖徳太子はシナ大陸を統一した隋に第二回目の遣隋使として小野妹子を遣いに出した。
このとき小野妹子は隋に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という国書を差し出した(奉呈は翌年3月)。
当時の隋の皇帝・煬帝はこれを尊大であるとし、
「悦(よろこ)ばず」、
「蛮夷の書、無礼なる者あり、また以て聞(きこ)するなかれ」
と強い怒りを示したと『随書』倭国伝は伝えている。
こんな無礼な国の外交文書は二度と自分に取り次ぐなとの意味である。
煬帝が怒ったのには理由があった。
煬帝の先代・文帝は589年、南朝の陳を滅ぼし、晋(西晋)が滅びてから約250年ぶりにシナ大陸に新しい統一国家を樹立した。
隋の建国とともに高句麗と百済は直ちに朝貢し、高句麗王は遼東郡公に、百済王は帯方郡王に、それぞれ任命された。
ただし、高句麗は隋が陳を滅ぼしたと聞くと直ちに防備の体制を固める。
大陸に統一国家ができると次には自国が侵略をうけるということを経験的に予測していたからである。
これを知った文帝は激怒し、高句麗王に詰問状を送り、恫喝した。
高句麗王は詫びを入れたが、本気で随に臣従する気はなかった。
新羅は三国の中では一番遅れて朝貢し、楽浪郡公を認められた。
新羅はその後は高句麗と対抗するために、隋に支援を求めた。
文帝が死に、604年、煬帝があとを継ぐ。
高句麗を挟んで隋と新羅との提携が次第に強まっていった。
煬帝はシナの皇帝の中で最も悪名の高い人物の一人であった。
こんな話が伝わっている。
トルコ系の東突厥は隋に降ったが、啓民可汗(王)が諸部族の長を集めて煬帝の到着を待っていると先遣の将軍がきて、天幕の前に草が茂っているのは見苦しいと言った。
可汗(王)は刀を抜いて自ら草を刈り、貴族以下すべての者が争ってこれに倣った。
東突厥と友好関係にあった高句麗の遺臣はその場に居合わせ、可汗(王)以下の貴族が草むしりをさせられるのを見ていた。
この遣臣に煬帝は高句麗王に速く朝貢に来るように伝えよと侍臣を通じて言った。
帰順すれば啓民可汗と同様に待遇する。
朝貢しなければ突厥の兵を先鋒に国土を蹂躙する。
しかし、帰順すれば啓民可汗と同様に待遇すると言われても、それは屈辱的な草むしりの強制に耐えることでしか ない・・・。
小野妹子が前記の国書を隋に奉呈したはちょうど煬帝が高句麗遠征の準備をしていたときのことであった。
東西を日の出と日没によって表現するのは世界的に広く認められた語法である。
しかし、「日出づる処の天子」と「日没する処の天子」と対比的にに書けば、単に東西の方角にとどまらない響きを持つ。
それに「天子」というのは皇帝の別号である。
光り輝く天の絶対的支配者という意味の称号が皇帝であり、その別号が「天子」である。
「王」というのは皇帝の臣下の中のトップの称号ではあるが、あくまで皇帝に臣従する者でしかない。
煬帝も隋の皇太子となる前は晋王の地位にあり、二人の弟は蜀と漢の王として地方にいた。
「王」とは皇帝に隷属する地方長官の名にすぎない。
周辺諸国の国王は内政に関しては自治権を委ねられているが、定期的な朝貢を義務づけられ、シナ皇帝が決めた元号を強制され、時には出兵を強いられた。
朝鮮半島の支配者もシナの皇帝に朝貢し、あらためてシナ皇帝から「王」の称号をもらっている。
当の我が国にしても五世紀の後半まではシナ皇帝に臣従しており、『宋書』倭国伝に登場する倭の五王、すなわち讃・珍・済・興・武は倭王もしくは倭国王と呼ばれるあくまで「王」という存在であった。
それがここに来て、日本が君主号として「天子」を使った。
繰り返すが、「天子」とは皇帝のことである。
中華思想によれば世界の君主は「皇帝」を名乗るシナの支配者のただ一人であって、その権威に拮抗する「日出づる処の天子」など、そもそもあってはならない存在であった。
聖徳太子の親書は「中華」的世界観への真っ向からの挑戦であった。
東突厥の王に草むしりをさせるような煬帝が激怒したのは当然であった。
煬帝が日本の傲岸さに立腹して兵を差し向けてくることも当時としてまったく考えられないことではなかった。
現に煬帝は2年後に一万余の兵をもって南海の「流求」を攻撃させ、住民一万人以上を拉致している。
聖徳太子や周辺の者も危険は承知していた。
ただ、隋が日本を攻めるにしても、隋は日本に関する情報をほとんど持っていない。
必ず偵察を兼ねた使節の来日が前提となる。
外交戦略はそのときもう一度練り直しても遅くはない。
かつての倭の五王のようにシナの皇帝に朝貢して何がしかの肩書きをもらっても、それは新羅と日本を同列に置くことでしかない。
隋と連携関係にある新羅を討つには、敢えて隋と対等の立場に立つ決断が必要である。
このように判断したのである。
案の定、煬帝は裴世清以下 13人を帰国する小野妹子に同行させ、日本がその意気高遠であることを怪しんで国風を調べさせた。
日本が新羅と百済に影響が強い国だと聞くから高句麗征伐を妨害されても困るので国情偵察かたがた慰撫しておく必要があると考えたからである。
608年9月に裴世清一行が帰国するとき、小野妹子は再び答礼の大使として一緒に海を渡った。
そのとき彼が持っていった国書は「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に曰す」で始まり、簡単な挨拶が続くものであった。
東の天皇と西の皇帝。
今度は天子と天子、皇帝と皇帝でぶつけなかったが、天皇も皇帝に匹敵する称号である。
天子と名乗ったことで激怒されたが、冊封体制下の「王」に逆戻りするつもりはない。
そこで使ったのが「天皇」という称号であった。
遣隋使の第一回目は西暦600年である。
我が国は隋がシナ大陸の統一を成し遂げるや間髪を入れずに外交交渉を始めるのである。
そして隋の二代目皇帝・煬帝が践祚するや対等な外交関係を結ぶべく二度にわたって国書を提示する。
二度の国書は日本が自立した王権であることを宣言したものであった。
自らシナ皇帝と対等な「天子」を称し、次いで「天皇」という称号を採用することによってシナ皇帝には臣従しないことを宣言したのである。
近隣諸国が次々にシナ皇帝に臣従し、シナ文明圏( 「中華」文明圏)に組み入れられる中、我が国は敢えてそこからの政治的自立を宣言したのである。
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隋(581年~618年)
(Wikipedia ) より
中国大陸にあった王朝。
魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後、分裂していた諸侯をおよそ 300年ぶりに再統一した。
しかし第 2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が支配するようになる。
都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。
当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。
隋の高句麗遠征(598年~613年)
隋の中国大陸統一により脅威を感じた高句麗が、隋の敵の「突厥」と結んで隋に対抗しようとする様子を見せたため、隋は 100万におよぶ大軍を起こし、これを 3度にわたって攻撃した。
おー!! トルコ系民族(突厥)がこんな方まで進出していたのですね。
古代の「ペルシア帝国」、そして 15世紀の「オスマン帝国」なんてのもありますしねぇ・・・