◆ (2) 孤立によって強さを獲得した聖徳太子 [ ◆ 日本は東アジアの一員じゃない]
われわれが背負う歴史の本質とは何か
近代日本の宿命、その終わりなき苦悩
「孤立」を強さに
―自画像を描き直すときが来た―
高崎経済大学教授 八木秀次
別冊『正論』EXTRA. 03 (2006年) より
(2) 「孤立」によって「強さ」を獲得した聖徳太子
このシナ文明圏からの「自立」は、言葉を変えれば、「孤立」を意味する。
我が国はこの聖徳太子の時代に、敢えて、「孤立」の道を選んだ。
そして「孤立」の道を選ぶことによって、大国隋と、対等な関係にあるという「強さ」をまた獲得したのであった。
私はこの聖徳太子の時代の事跡を、今は亡き文芸評論家の村松剛氏の遺作評論、『世界史の中の日本』 ―危機の指導者群像― (PHP 研究所、1995年)を敷衍(ふえん)する形で書いている。
村松剛著
『世界史の中の日本』 ―危機の指導者群像―
(Amazon )
西暦紀元前 50年頃から日本の新羅遠征まで、約 800年以上に及ぶ朝鮮半島やシナ大陸との交渉の歴史を通して、古代日本はその危機の時代をいかに生き抜いたか。
日本の宿命を見据えた遺作評論集。
この遺書の「あとがき」で、子息・村松聡氏は、村松氏(父)が、「聖徳太子を書きたい」と久しい以前から言っていたことを紹介しつつ、「明治以降、時々現れるアジア回帰論に対して、日本と漢民族が共通理解をもっているなどというのは、全くの幻想』 と、繰り返し説いていました」と述べている。
さらに、「大陸から、できるだけ日本は距離をとるべきだという主張も、通史のうちで立証したかったものの一つでしょう」とも述べている。
晩年の村松剛氏は、咽頭癌で苦しむ死の淵から聖徳太子を描き、太子を通して、今日の政治家を含む我が日本国民に、我が国はシナ文明圏から自立しているのだとの自覚を促し、安易なアジア回帰論「アジアの中で孤立してはならない」との認識が、如何に我が国の独立を危うくするかということについて、最後の力を振り絞って警鐘を鳴らしたのである。
村松氏は書いている。
村松氏はここで、シナ大陸の帝国から政治的に独立することが、「日本の基本的な姿勢として、後代の政府によってうけ継がれて行く」;と述べている。
しかし、今年平成13年
この論文は『月刊正論』平成 14年(2002年)1月号に掲載されたものです。
それから 17年を過ぎた今日でも未だ「東アジア共同体」なんていうアホなことをやろうとする政治家が現れたということは、日本国民の意識が、そういうものだという表われでもあり、相変わらず「近隣諸国に対して屈辱的なまでの卑下外交、謝罪外交を繰り返して」いるような政治家を選んでしまうのも、また、しかり。
文中にあるように、これは「構造改革」なんていう、私にはワケの分からんキャッチフレーズを掲げた小泉政権時代に書かれたものですが、今現在でも十分に役立つと思えたので、転載させて頂いてます (^^;
しかし、今年平成13年ほど、かつて聖徳太子が危険を冒してまで選び取った外国文明からの「自立」ないしは「孤立」、そしてそれゆえの「強さ」という、「日本の基本的な姿勢」 を、時の政府が放棄し、それゆえの惨めさを国民に見せつけた年は、なかったのではあるまいか。
やはりここで第一に取り上げなければならないのは、『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』の検定および採択に対する、中国・韓国・北朝鮮による度重なる内政干渉、および、それに対する我が国政府の対応をめぐる問題である。
今日の教科書問題の発端が、昭和 57年(1982年)の、教科書誤報事件にあることは、今さら言うまでもない。
同年6月下旬、文部省の検定によって、日本の華北への「侵略」が「進出」に書き換えられたと、日本のマスコミが一斉に報じた。
中国と韓国は、この報道をもとに、日本政府に抗議してきたが、そもそも、「侵略」を「進出」と書き換えさせたという事実はなく、マスコミの誤報であった。
にもかかわらず、時の鈴木善幸内閣の官房長官、宮澤喜一氏は、9月に鈴木首相の訪中を控えていることもあって、
「政府の責任で教科書の記述を是正する」
「検定基準を改め、近隣諸国との友好・親善に配慮する」
との談話を発表した。
そしてこの宮沢談話に基づいて、同年 11月、教科書検定基準に、新たな項目が追加された。
いわゆる『近隣諸国条項』である。
そこには、「近隣諸国のアジア諸国との間の、近現代史の歴史的事象の扱いに、国際理解と、国際協調の見地から必要な配慮が、なされていること」と規定されることになった。
この「国際理解」と「国際協調」の必要を指摘した、一見、穏当な検定基準こそは、我が国の検定教科書執筆の主導権を、事実上、近隣諸国に譲り渡すものであった。
宮沢談話にいう「近隣諸国との友好・親善に配慮する」とは、近隣諸国の言い分に、唯々諾々として従う、ということとほぼ同義であった。
既に明星大学教授の高橋史郎氏が、『繰り返される中韓の修正要求』(西尾幹二編著『歴史教科書「12の新提案」迫りくる「全体主義」の跫音』小学館文庫2001年所収)と題された論文で明らかにしているように、文部省は、現に、『教科書用図書検定調査審議会』の「歴史教科書の記述に関する検定の在り方について」の答申に至る議論の過程で、「具体的事項についての検定方針(案)」なるものを指示している。
その内容をここで繰り返している余裕はないが、ここにはまず、「中国からの意見に関わる具体的事項についての検定方針」として 2つの事項が挙げられている。
① 『侵略』
主として満州事変以降における日中関係の記述については、特に不適切と認められる場合を除き、『侵略』『侵攻』『侵入』『進出』等の表記について、検定意見を付さない。
② 南京事件
南京事件については、原則として、同事件が混乱の中で発生した旨の、記述を求める検定意見を付さない(後略)
すなわち、日本による “加害の記述” については、それがどんなものであれ、「原則として」検定意見を付けずに容認する、と言っているのである。
さらに露骨なのは、韓国に関わる記述についての検定基準である。
ここには、「韓国からの意見に関わる具体的事項についての検定方針」として、〈これまで検定意見を付けてきた事項〉として7つの事項が挙げられ、以降は検定意見を付さないことが、宣言されている。
すなわち
① 『侵略』
日韓併合の過程および、それ以降における日韓関係の記述については、特に不適切と認められる場合を除き、『侵略』『進出』等の表記について、検定意見を付さない。
② 土地調査事業
土地調査事業については、土地調査事業の結果、土地をとりあげられる等の表現をしている記述については、検定意見を付さない。
③ 3.1 独立運動
3.1 独立運動については、同運動が『暴動』の状況にあったとの記述を求める検定意見を付さない。(中略)
④ 神社参拝
神社参拝の 『強制』 等の表記については、検定意見を付さない。
⑤ 日本語使用
日本語使用の『強制』等の表記については、検定意見を付さない。また、学校教育において、日本語の使用を義務づける、あるいは朝鮮語の使用を禁止する旨の表現をしている記述については、検定意見を付さない。
⑥ 創氏改名
創氏改名の『強制』等の表記については、検定意見を付さない。
⑦ 強制連行
朝鮮人が強制的に連行された旨の表現については、検定意見を付さない。(後略)
である。
「検定意見を付さない」とされている記述には、今日の歴史学の学問水準からすれば、“事実” として明らかに間違いであるものも含まれている。
これではもう “歴史観の相違” といったレベルの問題ではない。
中国・韓国に関する教科書の記述は、両国の意をうけた執筆者にとっては、まったくもって書き放題である。
この検定基準では、デタラメな政治プロパガンダの類であっても、容易に検定に合格することになる。
近代日本の宿命、その終わりなき苦悩
「孤立」を強さに
―自画像を描き直すときが来た―
高崎経済大学教授 八木秀次
別冊『正論』EXTRA. 03 (2006年) より
(2) 「孤立」によって「強さ」を獲得した聖徳太子
このシナ文明圏からの「自立」は、言葉を変えれば、「孤立」を意味する。
我が国はこの聖徳太子の時代に、敢えて、「孤立」の道を選んだ。
そして「孤立」の道を選ぶことによって、大国隋と、対等な関係にあるという「強さ」をまた獲得したのであった。
私はこの聖徳太子の時代の事跡を、今は亡き文芸評論家の村松剛氏の遺作評論、『世界史の中の日本』 ―危機の指導者群像― (PHP 研究所、1995年)を敷衍(ふえん)する形で書いている。
村松剛著
『世界史の中の日本』 ―危機の指導者群像―
(Amazon )
西暦紀元前 50年頃から日本の新羅遠征まで、約 800年以上に及ぶ朝鮮半島やシナ大陸との交渉の歴史を通して、古代日本はその危機の時代をいかに生き抜いたか。
日本の宿命を見据えた遺作評論集。
この遺書の「あとがき」で、子息・村松聡氏は、村松氏(父)が、「聖徳太子を書きたい」と久しい以前から言っていたことを紹介しつつ、「明治以降、時々現れるアジア回帰論に対して、日本と漢民族が共通理解をもっているなどというのは、全くの幻想』 と、繰り返し説いていました」と述べている。
さらに、「大陸から、できるだけ日本は距離をとるべきだという主張も、通史のうちで立証したかったものの一つでしょう」とも述べている。
晩年の村松剛氏は、咽頭癌で苦しむ死の淵から聖徳太子を描き、太子を通して、今日の政治家を含む我が日本国民に、我が国はシナ文明圏から自立しているのだとの自覚を促し、安易なアジア回帰論「アジアの中で孤立してはならない」との認識が、如何に我が国の独立を危うくするかということについて、最後の力を振り絞って警鐘を鳴らしたのである。
村松氏は書いている。
「政治的には孤立をつらぬき、シナ大陸の帝国と対等の立場を維持しながら、その文明や技術は精力的に吸収するのが、太子の方針だった。
このころの隋は、戸数 890万というから、人口およそ 4500万人に達し、まさに超大国の名に値する。
最盛期の隋を相手に、軍事上の危険をあえて冒してまで、太子の政府はその政策を実行に移した。
それが、日本の基本的な姿勢として、後代の政府によってうけ継がれて行く。(中略)
中華世界の、外縁に位置しつづけた日本は、大陸の文化が活性にみちているかぎり、貪婪(どんらん)にそれを吸いとり、生命力を先方が失えば、積極的な交流をやめた。
中華世界に封じ込められていなかったから、近世にいたって、西欧諸国と接触したさいにも、極東では例外的に柔軟に対応することができた」(同書)
このころの隋は、戸数 890万というから、人口およそ 4500万人に達し、まさに超大国の名に値する。
最盛期の隋を相手に、軍事上の危険をあえて冒してまで、太子の政府はその政策を実行に移した。
それが、日本の基本的な姿勢として、後代の政府によってうけ継がれて行く。(中略)
中華世界の、外縁に位置しつづけた日本は、大陸の文化が活性にみちているかぎり、貪婪(どんらん)にそれを吸いとり、生命力を先方が失えば、積極的な交流をやめた。
中華世界に封じ込められていなかったから、近世にいたって、西欧諸国と接触したさいにも、極東では例外的に柔軟に対応することができた」(同書)
村松氏はここで、シナ大陸の帝国から政治的に独立することが、「日本の基本的な姿勢として、後代の政府によってうけ継がれて行く」;と述べている。
しかし、今年平成13年
この論文は『月刊正論』平成 14年(2002年)1月号に掲載されたものです。
それから 17年を過ぎた今日でも未だ「東アジア共同体」なんていうアホなことをやろうとする政治家が現れたということは、日本国民の意識が、そういうものだという表われでもあり、相変わらず「近隣諸国に対して屈辱的なまでの卑下外交、謝罪外交を繰り返して」いるような政治家を選んでしまうのも、また、しかり。
文中にあるように、これは「構造改革」なんていう、私にはワケの分からんキャッチフレーズを掲げた小泉政権時代に書かれたものですが、今現在でも十分に役立つと思えたので、転載させて頂いてます (^^;
しかし、今年平成13年ほど、かつて聖徳太子が危険を冒してまで選び取った外国文明からの「自立」ないしは「孤立」、そしてそれゆえの「強さ」という、「日本の基本的な姿勢」 を、時の政府が放棄し、それゆえの惨めさを国民に見せつけた年は、なかったのではあるまいか。
やはりここで第一に取り上げなければならないのは、『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』の検定および採択に対する、中国・韓国・北朝鮮による度重なる内政干渉、および、それに対する我が国政府の対応をめぐる問題である。
今日の教科書問題の発端が、昭和 57年(1982年)の、教科書誤報事件にあることは、今さら言うまでもない。
同年6月下旬、文部省の検定によって、日本の華北への「侵略」が「進出」に書き換えられたと、日本のマスコミが一斉に報じた。
中国と韓国は、この報道をもとに、日本政府に抗議してきたが、そもそも、「侵略」を「進出」と書き換えさせたという事実はなく、マスコミの誤報であった。
にもかかわらず、時の鈴木善幸内閣の官房長官、宮澤喜一氏は、9月に鈴木首相の訪中を控えていることもあって、
「政府の責任で教科書の記述を是正する」
「検定基準を改め、近隣諸国との友好・親善に配慮する」
との談話を発表した。
そしてこの宮沢談話に基づいて、同年 11月、教科書検定基準に、新たな項目が追加された。
いわゆる『近隣諸国条項』である。
そこには、「近隣諸国のアジア諸国との間の、近現代史の歴史的事象の扱いに、国際理解と、国際協調の見地から必要な配慮が、なされていること」と規定されることになった。
この「国際理解」と「国際協調」の必要を指摘した、一見、穏当な検定基準こそは、我が国の検定教科書執筆の主導権を、事実上、近隣諸国に譲り渡すものであった。
宮沢談話にいう「近隣諸国との友好・親善に配慮する」とは、近隣諸国の言い分に、唯々諾々として従う、ということとほぼ同義であった。
既に明星大学教授の高橋史郎氏が、『繰り返される中韓の修正要求』(西尾幹二編著『歴史教科書「12の新提案」迫りくる「全体主義」の跫音』小学館文庫2001年所収)と題された論文で明らかにしているように、文部省は、現に、『教科書用図書検定調査審議会』の「歴史教科書の記述に関する検定の在り方について」の答申に至る議論の過程で、「具体的事項についての検定方針(案)」なるものを指示している。
その内容をここで繰り返している余裕はないが、ここにはまず、「中国からの意見に関わる具体的事項についての検定方針」として 2つの事項が挙げられている。
① 『侵略』
主として満州事変以降における日中関係の記述については、特に不適切と認められる場合を除き、『侵略』『侵攻』『侵入』『進出』等の表記について、検定意見を付さない。
② 南京事件
南京事件については、原則として、同事件が混乱の中で発生した旨の、記述を求める検定意見を付さない(後略)
すなわち、日本による “加害の記述” については、それがどんなものであれ、「原則として」検定意見を付けずに容認する、と言っているのである。
さらに露骨なのは、韓国に関わる記述についての検定基準である。
ここには、「韓国からの意見に関わる具体的事項についての検定方針」として、〈これまで検定意見を付けてきた事項〉として7つの事項が挙げられ、以降は検定意見を付さないことが、宣言されている。
すなわち
① 『侵略』
日韓併合の過程および、それ以降における日韓関係の記述については、特に不適切と認められる場合を除き、『侵略』『進出』等の表記について、検定意見を付さない。
② 土地調査事業
土地調査事業については、土地調査事業の結果、土地をとりあげられる等の表現をしている記述については、検定意見を付さない。
③ 3.1 独立運動
3.1 独立運動については、同運動が『暴動』の状況にあったとの記述を求める検定意見を付さない。(中略)
④ 神社参拝
神社参拝の 『強制』 等の表記については、検定意見を付さない。
⑤ 日本語使用
日本語使用の『強制』等の表記については、検定意見を付さない。また、学校教育において、日本語の使用を義務づける、あるいは朝鮮語の使用を禁止する旨の表現をしている記述については、検定意見を付さない。
⑥ 創氏改名
創氏改名の『強制』等の表記については、検定意見を付さない。
⑦ 強制連行
朝鮮人が強制的に連行された旨の表現については、検定意見を付さない。(後略)
である。
「検定意見を付さない」とされている記述には、今日の歴史学の学問水準からすれば、“事実” として明らかに間違いであるものも含まれている。
これではもう “歴史観の相違” といったレベルの問題ではない。
中国・韓国に関する教科書の記述は、両国の意をうけた執筆者にとっては、まったくもって書き放題である。
この検定基準では、デタラメな政治プロパガンダの類であっても、容易に検定に合格することになる。
し、しばし、ぼー・・・然・・・
我が日本国で、このようなウソ八百を並べ立てた教科書が使われていたなんて・・・
一体、何が、どこで、どうなったのか。
宮澤のジイさんが西向きというだけじゃないだろう、ここまで来ると!!怒
日韓併合時代に使われていた(当時は“日本国民”だった)朝鮮の子供たちのための教科書 (朝鮮総督府発行)
どうだ!!
これでもまだデタラメ を(↓)言うか (-_-)/~~~ピシー!ピシー!
>⑤ 学校教育において
日本語の使用を義務づける
あるいは朝鮮語の使用を禁止する
というか、そもそも、日韓併合当時の朝鮮半島は、満洲民族の「清国」の属国だったために、ごくごく一部の特権階級だけは中国の漢字を使っていて、あとは文盲だったそうで、ハングルそのものが埋もれて消滅しかかっていたそうです。
そんな状況のところに、帝政ロシアが南下を始め、危機感を抱いた李朝は、財政がカラッポだったこともあって、日本に助けを求めました。
日本としては、朝鮮が独立国として開国してくれれば、清国などとの貿易がスムーズに行くという計画だったのですが、とてもとても独立国家という体制ではなく、仕方なく朝鮮総督府を置いて、日本国内と同様の近代化を進めたという経緯があります。
学校も建て、埋もれていたハングルを探し出して整備して、日本語とバイリンガルで教えて文盲をなくして、人々の意識を高めようともしました。
その朝鮮半島のインフラ整備の費用は、どこから出ていたと思います?
日本の内地(本土)の国民の税金からです。
「間違いである、ものも」じゃなくて、全部間違いだろーに!怒怒怒
日韓併合の真実
(www35.atwiki.jp/kolia/pages/143.html )
日本は東アジアの一員じゃない
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