◆ 韓国の国旗である「太極旗」は、「日章旗」を基に作られていた [ ◆ 朝鮮半島 (韓国 & 北朝鮮)]
太極旗の歴史忘れた韓国の策動
下條正男 東海大・島根県立大客員教授
2021.08.28
(www.sankei.com/article/20210828-PDVMGEOU35OSNK5URNQ37AXYBM/ )
韓国は日章旗を「戦犯旗」と称し、執拗に言いがかりを続けている
東京オリンピックの最中、ひときわ関心を集めたのが、韓国の一部人士による「ディスカウントジャパン」(韓国による日本の国際的な地位の失墜を目指す運動)の策動である。
中でも旭日旗を「戦犯旗」と称して、何でも旭日旗のデザインに結びつけ、その対象物を執拗(しつよう)に攻撃する姿勢には呆(あき)れるばかりであった。
だがそれは、この運動の中心的人物で「韓国の広報専門家」と呼ばれる徐敬徳(ソギョンドク)氏個人の問題だけではない。
東京オリンピックという「平和の祭典」会場に乱入し、祭典そのものをぶち壊そうとする行為だったが、主催者や後援者たちは為(な)す術(すべ)もなく、ただ時の過ぎるのを待っていただけかのように見えたからだ。
国家主権を侵され続け
これは近時のコロナ禍の日本の現状とも、重なるものがある。
何をどう対処したらよいのかアイデアも出せず、眼前の惨状を解決しようとする意識に乏しい点でも似ているからだ。
これは今に始まった課題ではなく、松下幸之助翁が松下政経塾を開塾した当時も、囁(ささや)かれていた。
だが松下政経塾出身者が多かったかつての民主党政権は、従前以上に東アジア社会を混乱させてしまった。
とりわけ「竹島問題」や「尖閣問題」では、失態の繰り返しであった。
2010年の中国漁船による衝突事件の処理を契機として中国政府による挑発行動を誘導してしまい、2012年には韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が初めて竹島(島根県隠岐の島町)に上陸したからだ。
松下政経塾が誕生してから後の国政選挙の際は、俄(にわ)かに「〇〇塾」が作られ、やたらと弁護士や元官僚の国会議員が輩出されるようになった。
弁護士や元官僚であれば、政治の専門家でもあるかのように錯覚しているのだろう。
だが現実を考えてみたらよい。
法律や政治の専門家でもあるはずの国会議員諸氏の中で、国家主権に関わる「竹島問題」や「尖閣問題」、「北方領土問題」と「拉致問題」に関心を示し、実際に戦っている議員先生はどれだけいるだろうか。
戦いを始めれば、国会議員をしている暇はないからだ。
日本では半世紀以上も国家主権を侵され、国家として自立できない状態が続いている。
それは憲法を変えたからといって、自立ができるわけでもない。
弁護士や元官僚であれば、国家主権については学んだであろう。
にもかかわらず、国家主権が侵され続けても何もしないとすれば、それは「論語読みの論語知らず」である。
「両国同心の意」は・・・
その点でいえば、韓国の広報専門家を自称する徐氏も同じ「輩(ともがら)」である。
徐氏は旭日旗を「戦犯旗」としていたく批判するが、韓国の国旗である太極旗は、日章旗を基に作られていた歴史的経緯がある。
その日章旗がベースとなっている旭日旗と太極旗は、親戚の関係にある。
それも韓国の国旗である太極旗が誕生したのは、明治初期、外交官の宮本小一(おかず)が朝鮮に対し、「国家として自立するには国旗が必要だ」と説いたのが始まりである。
それについては、日本統治時代の評論家、文一平も「太極旗の模様は宮本小一の提案」としている。
だが、実際に「太極旗」の素案に関わったのは公使の花房義質(はなぶさ・よしもと)である。
1880年、清朝の黄遵憲の「朝鮮策略」では、朝鮮に対して、清国の「龍旗」を国旗とするよう求めていた。
それを知った花房が1881年、「我(わが)国旗の日章に、仮に三巴(みつどもえ)を縫付(ぬいつけ)た」国旗を試作し、それを宮本小一が朝鮮に提案したからだ。
その太極旗は、日章旗に三つ巴を縫い付けて「両国同心の意を表」し、「朝鮮の独立を標(しる)す」ものとされ、それを見た朝鮮の大臣たちも皆、「首肯(しゅこう)」したという。
この三つ巴の太極旗は、後に二つ巴の現在の太極旗となるのである。
1982年、朝鮮修信使の朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、金玉均(キム・オッキュン)らが日本を訪れた際、一行が搭乗した明治丸には「太極旗」が掲げられていた。
その太極旗には、清朝からの自立の意味が込められていたのだ。
日清戦争の結果、1897年に自主独立の国となった大韓帝国はその象徴として、清朝の使臣を迎えるための「迎恩門」を壊して「独立門」を建てたが、その独立門の文字の左右に彫られたのは太極旗である。
太極旗には、清朝に隷属を強いられた朝鮮が、日本とともに近代の門を開こうとする「両国同心の意」があった。
徐氏は、旭日旗を戦犯旗とするが、太極旗は19世紀末に作られた「親日旗」である。
だがそれは、帝政ロシアの南下と従属を求める清朝に抗するため、朝鮮半島の先人らがめざした朝鮮独立の「標(しるし)」でもあった。
韓国では「歴史を忘れた民族に未来はない」というそうだが、徐氏は旭日旗を戦犯旗と呼ぶ前に、「親日旗」である太極旗の廃止から叫んではどうだろうか。
下條正男 東海大・島根県立大客員教授
2021.08.28
(www.sankei.com/article/20210828-PDVMGEOU35OSNK5URNQ37AXYBM/ )
韓国は日章旗を「戦犯旗」と称し、執拗に言いがかりを続けている
東京オリンピックの最中、ひときわ関心を集めたのが、韓国の一部人士による「ディスカウントジャパン」(韓国による日本の国際的な地位の失墜を目指す運動)の策動である。
中でも旭日旗を「戦犯旗」と称して、何でも旭日旗のデザインに結びつけ、その対象物を執拗(しつよう)に攻撃する姿勢には呆(あき)れるばかりであった。
だがそれは、この運動の中心的人物で「韓国の広報専門家」と呼ばれる徐敬徳(ソギョンドク)氏個人の問題だけではない。
東京オリンピックという「平和の祭典」会場に乱入し、祭典そのものをぶち壊そうとする行為だったが、主催者や後援者たちは為(な)す術(すべ)もなく、ただ時の過ぎるのを待っていただけかのように見えたからだ。
国家主権を侵され続け
これは近時のコロナ禍の日本の現状とも、重なるものがある。
何をどう対処したらよいのかアイデアも出せず、眼前の惨状を解決しようとする意識に乏しい点でも似ているからだ。
これは今に始まった課題ではなく、松下幸之助翁が松下政経塾を開塾した当時も、囁(ささや)かれていた。
だが松下政経塾出身者が多かったかつての民主党政権は、従前以上に東アジア社会を混乱させてしまった。
とりわけ「竹島問題」や「尖閣問題」では、失態の繰り返しであった。
2010年の中国漁船による衝突事件の処理を契機として中国政府による挑発行動を誘導してしまい、2012年には韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が初めて竹島(島根県隠岐の島町)に上陸したからだ。
松下政経塾が誕生してから後の国政選挙の際は、俄(にわ)かに「〇〇塾」が作られ、やたらと弁護士や元官僚の国会議員が輩出されるようになった。
弁護士や元官僚であれば、政治の専門家でもあるかのように錯覚しているのだろう。
だが現実を考えてみたらよい。
法律や政治の専門家でもあるはずの国会議員諸氏の中で、国家主権に関わる「竹島問題」や「尖閣問題」、「北方領土問題」と「拉致問題」に関心を示し、実際に戦っている議員先生はどれだけいるだろうか。
戦いを始めれば、国会議員をしている暇はないからだ。
日本では半世紀以上も国家主権を侵され、国家として自立できない状態が続いている。
それは憲法を変えたからといって、自立ができるわけでもない。
弁護士や元官僚であれば、国家主権については学んだであろう。
にもかかわらず、国家主権が侵され続けても何もしないとすれば、それは「論語読みの論語知らず」である。
「両国同心の意」は・・・
その点でいえば、韓国の広報専門家を自称する徐氏も同じ「輩(ともがら)」である。
徐氏は旭日旗を「戦犯旗」としていたく批判するが、韓国の国旗である太極旗は、日章旗を基に作られていた歴史的経緯がある。
その日章旗がベースとなっている旭日旗と太極旗は、親戚の関係にある。
それも韓国の国旗である太極旗が誕生したのは、明治初期、外交官の宮本小一(おかず)が朝鮮に対し、「国家として自立するには国旗が必要だ」と説いたのが始まりである。
それについては、日本統治時代の評論家、文一平も「太極旗の模様は宮本小一の提案」としている。
だが、実際に「太極旗」の素案に関わったのは公使の花房義質(はなぶさ・よしもと)である。
1880年、清朝の黄遵憲の「朝鮮策略」では、朝鮮に対して、清国の「龍旗」を国旗とするよう求めていた。
それを知った花房が1881年、「我(わが)国旗の日章に、仮に三巴(みつどもえ)を縫付(ぬいつけ)た」国旗を試作し、それを宮本小一が朝鮮に提案したからだ。
その太極旗は、日章旗に三つ巴を縫い付けて「両国同心の意を表」し、「朝鮮の独立を標(しる)す」ものとされ、それを見た朝鮮の大臣たちも皆、「首肯(しゅこう)」したという。
この三つ巴の太極旗は、後に二つ巴の現在の太極旗となるのである。
1982年、朝鮮修信使の朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、金玉均(キム・オッキュン)らが日本を訪れた際、一行が搭乗した明治丸には「太極旗」が掲げられていた。
その太極旗には、清朝からの自立の意味が込められていたのだ。
日清戦争の結果、1897年に自主独立の国となった大韓帝国はその象徴として、清朝の使臣を迎えるための「迎恩門」を壊して「独立門」を建てたが、その独立門の文字の左右に彫られたのは太極旗である。
太極旗には、清朝に隷属を強いられた朝鮮が、日本とともに近代の門を開こうとする「両国同心の意」があった。
徐氏は、旭日旗を戦犯旗とするが、太極旗は19世紀末に作られた「親日旗」である。
だがそれは、帝政ロシアの南下と従属を求める清朝に抗するため、朝鮮半島の先人らがめざした朝鮮独立の「標(しるし)」でもあった。
韓国では「歴史を忘れた民族に未来はない」というそうだが、徐氏は旭日旗を戦犯旗と呼ぶ前に、「親日旗」である太極旗の廃止から叫んではどうだろうか。
いやあ、あの「当たるも八卦、当たらぬも八卦」を使った「大韓民国=南朝鮮=韓国の国旗=太極旗」の謂われを初めて知りました!!
大韓民国(南朝鮮)の国旗 八卦爻と太極
黄遵憲が朝鮮国旗として使うこと 朝鮮民主主義人民共和国の国旗
を主張した1880年当時の
清国・黄龍旗(国旗)。
後に李鴻章は爪の数を四つに減らした
龍を国旗とするよう指示した。
ちなみに、しばしばメディアなどに「朝鮮半島=李氏朝鮮⇒韓国」と錯覚しそうな表現が見られます。
ほら、昔(!)菅 “スッカラカン” 直人首相なんかも、日本にある「李氏朝鮮の書物など」を、「南朝鮮=大韓民国=韓国、だけ」にあげちゃったことがありましたね。
しかもそれは「コピー」であって、原本は朝鮮にある筈なのに、管理がズサンで紛失しちゃってたというシロモノ。
あげちゃったことに対する批難は殺到しましたけれど、「李氏朝鮮のもの」ならば「北朝鮮と南朝鮮の両方のもの」ですから、片方だけってのは有り得ないという批判は、私以外(?)見られませんでした。
上の下條先生の文章でも、読み流してしまうと、その間違いを犯しそうです。
日本が提唱した「朝鮮が独立国家として」という「太極旗」は、多少のデザインの変更を経ながら、1945年まで、「大韓帝国=北朝鮮と南朝鮮」で使われていた国旗です。
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