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◆ 第6章 (5) マルクス主義者の東アジア像とその解体 [  ❒ 新しい神の国(古田博司著)]


GAMMA RAY ~ Empress  (2007)



古田博司著新しい神の国

第6章 別亜論とは何か


5. マルクス主義者の東アジア像とその解体


話がだいぶ飛んでしまったので、本筋の「別亜論」に戻りたいと思う。 


繰り返すが、かつてのアジア主義者たちの東アジア認識には実体がなかった。

江戸時代からの先輩たち同様に、漢籍から得た儒教、朱子学、その変容思想などの知識が東アジアの共通点であるかのように観念され、東アジアの人々がどのような血族に組織され、どのような村に生き、どのような宗教観をもち、自分たちの世界を認識していたかということには、まったく無頓着だったのである。


彼らと同世代のマルクス主義者たちも同然であった。

ただし彼らの場合は、東アジア認識は儒教や朱子学などではなく、マルクス主義の唯物史観であった。

世界経済には発展段階というものがあり、
アジア的生産様式(大塚史学では、オリエント貢納制という)
→ ギリシャ・ローマ奴隷制 
→ ヨーロッパ封建制
→ 資本主義体制
→ 社会主義体制
といったように経済体制が推移する。

これが世界共通の経済発展のモデルであり、世界のいかなる地域もこのシェーマ(模式)に従うという、今にして思えば実に西洋中心的な傲慢なるモデルであった。


このモデルから行けば、中国などはアジア的生産様式ということで、ハナから停滞しているのであり、専制的な王朝が水利灌漑(かんがい)を独占し(これはウィットフォーゲルというドイツ人学者が論を補った)、人民を奴隷状態のまま統治する「総体的奴隷制」がその発現形態であると説かれていた。


今その典型的な解説を、当時の中国学者のものから拾ってお目にかけよう。


専制権力の存在は、旧支那社会の全時代を通ずる一つの特性である。

王朝の更迭が限りなく行はれたなかにも、新たな王朝がつねに専制性を帯びて登場し、又この専制性が永年継続し得たのは、支那社会のあらゆる時代に存在すべき何等かの恒常的因子が考へられねばならぬ。

いはゆる小宇宙的共同体の存在は、少なくともかくの如き条件にかなつてゐる。この意味に於て吾人は
「支那経済組織の根本は、仮令幾多の変換があつても、依然として、自治組織によつた村落団体であり、この無数の細胞は何等独立的な中間的支配力を経由せず、唯一完全の土地所有者である天子の下に集合して、支那帝国を形成して居た」
と述べた中江氏の言葉にも、極めて深い含蓄を見出す。

(清水盛光『支那社会の研究―社会学的考察』、岩波書店、193 年初版、1947年六刷。文中の中江氏とは中江丑吉のことである)


つまり専制的な王朝権力の存続を可能にするような、専制的な村落共同体が小宇宙のようにあって、それが天子のもとに細胞のように集まって帝国を支えているというイメージである。

これを当時「東洋的専制主義」とよび、その論は、孤立的・小宇宙的な村落の方に力点を置くのではなかった。

むしろ専制主義をゆるす奴隷制の共同体があまねく中国全土に行きわたっていて、それがアジア的生産様式を紡ぎ出しているのだというマルクス主義の発想が当初からあり、そこからこのような中国イメージが演繹されたのである。


しかし、このような東アジア像が間違っていることに最初に気づいたのも、皮肉なことに当時のマルクス主義者たちであった。

それも戦時中、日本軍の占領地の中国農村に実際に入って調査したものたちが覚醒したのである。


1940年から約5年間、満鉄調査部北支経済調査慣行班が組織され、華北農村の実態調査が行われた。

慣行班は現地の農民と質疑応答を繰り返し、また多くの文書資料を集め、それらは戦後、『中国農村慣行調査』全6巻(岩波書店、1952-1958年)にまとめられ刊行された。

そのメンバーであった旗田巍は、その結果を次のように述べている。


かつて昭和初年に、中国革命の急展開と関連して、中国社会の性格・特質が問題となり、「アジア的生産様式」あるいは「東洋的社会」あるいは「東洋的専制主義」が論議された。

そのさい中国社会の特質をとく鍵として、水利とならんで共同体が大きく取り上げられた。 

今日からみると理論的にも実証的にも未熟なものであったが、当時は、共同体は中国社会を解明する重要な鍵とみなされ、共同体の存在は疑いようもない自明のもののように考えられていた。

(中略)

戦争中に中国の各農村で行われた実態調査は、これまで論議されてきた共同体理論を検証する機会になった。

当時、私は共同体理論の不備を考えながらも中国における村落共同体の実在を想定し、満鉄の農村実体調査への参加を機会に村落共同体の実態を追及しようと企てた。

のちに私は村落共同体の存在について否定的意見をもつようになったが、当初はその存在を予想していた。

しかし調査の進行とともに、初めの予想はくずれていった。(序に代えて) 

中国の村の伝統的自治は、国家から育成もされず制約もされない放任された自治であった。

村は国家の末端機関ではなく、国家支配の対象であり、国家に公租公課を提供するものにすぎなかった。

こういうところでは、国が村の境界をきめる必要はなく、その有無は国家が関知することではなかった。

(第五章)(『中国村落と共同体理論』岩波書店、1973年初版、1976年二刷)


つまり専制的な王朝権力を下支えするような専制的な村落共同体はなかったのである。

あったのは村界も不分明な村であり、作物の盗難を防ぐための監視(これを看青という)を置こうとすれば、村の無頼漢にそれを託するような村、村の廟祭りをすれば出てくるのは富農ばかりで、金のない貧農は出てこないような身分制的制約のまったくないルーズな村々であった。 


むしろ調査の核とすべきは、村落などではなく、彼らの生活の根本である宗族(男子単系血族)の経済行動の方であったに違いない。

最近の研究では、もちろんそちらの方に力点が移っている。(たとえば、吉原和男・鈴木正崇・末成道男編『〈血縁〉の再構築 ―東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年)


しかし当時マルクス主義が権威であった学界で、宗族にきづくことなく、「村落共同体」に関心が集中したのもむべなるかなであり、そのような状況にもかかわらず現地入りし、「村落共同体」の実態をはじめて実証したことは素晴らしい成果だったのである。

なぜならばこのことにより、日本人はようやく自らの東アジア像が幻想であったことを、しっかりと確認できたからにほかならない。


戦後、旗田巍が朝鮮史研究に専念し、北朝鮮を無視する日韓基本条約に反対し、日本が朝鮮に対して「加害国」だという認識を日本国内に広めたことは、すでに第三章に述べたところである。

その旗田が先の著書では、次のように語っている。


この調査は、戦争中に、日本軍の占領地域で、満鉄という植民地経営会社の力で行われたものである。

したがって、この調査は権力を背景とする植民地調査である。

これは明白な事実である。

しかし、そのことは、この調査の学術的内容を否定することにはならないと思う。

(中略)

この調査が純学術的調査であるという自負心は、調査員の研究意欲をさかんにした。

調査室の空気は自由奔放といってよいほど活気にみちていた。

あれほど活発な議論を私は以前にも以後にも経験したことがない。

(同書、附録1『中国農村慣行調査』をかえりみて」)


筆者もその通りだと思う。

日本人は、中国を侵略し村々を占領してはじめて、そこに自分たちとは違う人々を発見したのである。

ここから「別亜論」までは、あと一歩の所であったが、旗田は撤退した。

そして戦後、朝鮮植民地で同じように「別亜」に気づいた人々の研究を、東アジア連帯派のアジア主義者として果敢に封印したのであった。




新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )

第6章 別亜論とは何か

1.日本は始めから脱亜していた
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
6.朝鮮植民地で別亜に気づいた人々



文明の衝突
◆ 日本は東アジアの一員じゃない


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