◆ (1) 中世日本は世界で最も現代思想に近かった [ ❒ 日本人の生活文化(菅原正子著)]
THE BLACK KEYS ~ Tighten Up (2010)
菅原正子著『日本人の生活文化』
第1部 日本人の生活 -西洋と比較して-
第二章 男女関係と夫婦関係
(1) 男と女とジェンダー
イエズス会士たちが日本の女性について書いた記述からは、意外な日本女性の姿が浮かび上がってくる。
日本の女性は、男性と同じようにして馬に乗ったという。
戦国時代の女性が男性と同じ姿勢で馬に乗った姿は、上杉本『洛中洛外図屏風』の右隻に描かれており、ヴァリニャーノとルイス・フロイスの記述を裏づけている。
この時代の小袖は現在よりも見頃の幅がゆったりと仕立てられていたため、女性の馬乗りは可能であった。
馬は男性に限らず女性の乗り物でもあったのであり、戦国時代の女性は意外と活動的であった。
さらに、ルイス・フロイス『日欧文化比較』第二章「女性とその風貌、風習について」には、日本の女性の自由な行動について書かれている。
これらの記述は、親や夫に従順な日本女性というイメージを打ち消すものである。
男尊女卑の思想は、ヨーロッパ社会の方がむしろ強かったことは、ヨーロッパ社会を支配したキリスト教の教えから読み取れる。
『新約聖書』のパウロ書簡「コリント人への第一の手紙」第十一章には次のようにある。
このパウロ書簡では、男性を女性の上に置き、女性を男性の従属者とみなしている。
『旧約聖書』「創世記」第二章では、男のあばら骨で女を造ったとしており、女は男の一部であった。
日本にも男尊女卑の思想は存在した。
「三従」の教えというものがあり、女性は子供のときは父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うとしている。
この「三従」を日本固有の道徳と思っている人がいるかもしれない。
しかし「三従」は中国の儒教の教えである。
すなわち、中国の戦国時代中期(紀元前3世紀)頃成立の『儀礼』(ぎらい)喪服伝には、「三従」について次のように記している。
また、前漢末頃(紀元前1世紀頃)成立の『礼記』(らいき)郊特牲編にも
とある。
『礼記』は、儒教の四書・五経の典籍のうち、五経の一つである。
これら儒教の古典が日本に流入して教育書の役割を果たし、「三従」は一般に広まった。
日本でも「三従」の教えはさまざまな文献にみえる。
室町時代に成立した軍記物の『義経記』(ぎけいき)巻三に
「三従の恩愛男に離れて便りなし」
(三従の恩愛により女は男から離れては頼る者がいない)
とあるなど、日本の中世社会にも「三従」の思想は定着していた。
鎌倉時代に『御成敗式目』を制定した幕府の執権北条泰時は、制定について記した書状に、
「従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはば」
と書いており、妻は夫に従うべきものという北条泰時の道徳観が表れている。
これも「三従」の影響であろう。
しかし、『御成敗式目』の法令自体には、女性を従属者とみなす内容はほとんどみられない。
また、仏教においては、『法華経』 第十二章 「提婆達多品」 (だいばだつたほん) で 女性には 「五障」 があり、すなわち梵天・帝釈天・魔王・転輪聖王 (てんりんじょうおう)・仏身に女性はなることはできないとしている。
また、男子に姿を変えることによって成仏できる「変成(へんじょう)男子」の思想が日本で広まり、さらに、室町時代に中国から日本に入ってきた『血盆経』は、女性が出産や月経の血で地をけがす存在であるとして地獄に落ちるとした。
これらは、日本の中世社会において女性への差別を増長させたと考えられている。
しかし、1552年1月29日(コーチン発)フランシスコ・ザビエル書簡(ヨーロッパのイエズス会員宛)には、次のような興味深い記述がある。
つまり仏教の僧侶たちは、女性は月経のために男性より深い罪を負い地獄に落ちるが、自分たち僧侶に男性よりも多くの寄進をすれば地獄に落ちなくてすむ、と女性たちに説教をして彼女たちから多くの金銭を得たというのである。
「五障」「変成男子」『血盆経』の思想が広まったのは、女性への差別観だけでなく、寺院の僧侶たちが経済的収入を増やすために利用した面もあったといえよう。
一方、中世の日本には、女性の力を認める考えが存在したことも事実である。
慈円の著した史書『愚管抄』巻六の次の文は有名である。
女人入眼の日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ。
鎌倉時代の初めに、関東の幕府では北条正子とその弟北条義時が政治を行い、京都の朝廷では後鳥羽上皇の女房の卿二位(藤原兼子)が権勢を誇り、慈円は、位記に最後に氏名を書き入れるごとく女性が政治の最後の仕上げをすることはますます本当のことである、としている。
女性による政治を認める思想は、元関白の一条兼良が室町幕府の若き将軍足利義尚(よしひさ)のために文明十二年(1480年)に著した『樵談治要』(しょうだんりよう)にも、「簾中 (れんちゅう)より政務ををこなはるる事」として書かれている。
ここでは、天照大御神・神功皇后、六人の女性天皇と北条正子などを挙げ、男であれ女であれ、天下の道理をよくわかっている人物であれば、政治を行うのは当然である、としている。
この『樵談治要』は、前将軍足利義政の正室である日野富子の時代に書かれたので、当時権力があった富子のことを考慮して書いたものであるという見方がある。
しかし、富子の死後30年以上たった大永8年(1528年)に伊勢貞頼が著した武家故実書『宗五大草紙』(そうごおおぞうし)にも、
「此日本国中ハ倭国とて女もおさめ侍るべき国也」
として『樵談治要』と同じような内容を書いており、「されば男女によるべからず」とある。
『樵談治要』の「女のおさむるべき国」は、富子への配慮ばかりではないといえよう。
中世社会には、「三従」の思想など女性への蔑視観があったが、一方では、女性も政道をわきまえていれば政治を行うのは当然であるとする、実力重視の男女平等もまた存在したのである。
中世の日本では、ジェンダー(社会・文化的性差)は同時代のヨーロッパよりは少なかったのではないだろうか。
第1部 日本人の生活 -西洋と比較して-
第二章 男女関係と夫婦関係
(1) 男と女とジェンダー
イエズス会士たちが日本の女性について書いた記述からは、意外な日本女性の姿が浮かび上がってくる。
婦人は男子のように馬に乗って道を行く。
(ヴァリニャーノ「日本諸事要録」第二章から)
ヨーロッパの女性は横鞍または腰掛に騎っていく。
日本の女性は男性と同じ方法で馬に乗る。
(ルイス・フロイス『日欧文化比較』第二章 49)
(ヴァリニャーノ「日本諸事要録」第二章から)
ヨーロッパの女性は横鞍または腰掛に騎っていく。
日本の女性は男性と同じ方法で馬に乗る。
(ルイス・フロイス『日欧文化比較』第二章 49)
日本の女性は、男性と同じようにして馬に乗ったという。
戦国時代の女性が男性と同じ姿勢で馬に乗った姿は、上杉本『洛中洛外図屏風』の右隻に描かれており、ヴァリニャーノとルイス・フロイスの記述を裏づけている。
この時代の小袖は現在よりも見頃の幅がゆったりと仕立てられていたため、女性の馬乗りは可能であった。
馬は男性に限らず女性の乗り物でもあったのであり、戦国時代の女性は意外と活動的であった。
さらに、ルイス・フロイス『日欧文化比較』第二章「女性とその風貌、風習について」には、日本の女性の自由な行動について書かれている。
ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。
日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。
ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。
日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。
ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。
日本では夫が後、妻が前を歩く。
日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。
ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。
日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。
ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。
日本では夫が後、妻が前を歩く。
これらの記述は、親や夫に従順な日本女性というイメージを打ち消すものである。
男尊女卑の思想は、ヨーロッパ社会の方がむしろ強かったことは、ヨーロッパ社会を支配したキリスト教の教えから読み取れる。
『新約聖書』のパウロ書簡「コリント人への第一の手紙」第十一章には次のようにある。
すべての男性の頭(かしら)はキリストであり、女性の頭は男性であり、キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。
このパウロ書簡では、男性を女性の上に置き、女性を男性の従属者とみなしている。
『旧約聖書』「創世記」第二章では、男のあばら骨で女を造ったとしており、女は男の一部であった。
日本にも男尊女卑の思想は存在した。
「三従」の教えというものがあり、女性は子供のときは父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うとしている。
この「三従」を日本固有の道徳と思っている人がいるかもしれない。
しかし「三従」は中国の儒教の教えである。
すなわち、中国の戦国時代中期(紀元前3世紀)頃成立の『儀礼』(ぎらい)喪服伝には、「三従」について次のように記している。
婦人に三従の義ありて、専用の道なし。
故にいまだ嫁せざれば父に従い、既に嫁すれば夫に従い、夫死すれば子に従う。
故にいまだ嫁せざれば父に従い、既に嫁すれば夫に従い、夫死すれば子に従う。
また、前漢末頃(紀元前1世紀頃)成立の『礼記』(らいき)郊特牲編にも
婦人は人に従うものなり。
幼くしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子に従う。
幼くしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子に従う。
とある。
『礼記』は、儒教の四書・五経の典籍のうち、五経の一つである。
これら儒教の古典が日本に流入して教育書の役割を果たし、「三従」は一般に広まった。
日本でも「三従」の教えはさまざまな文献にみえる。
室町時代に成立した軍記物の『義経記』(ぎけいき)巻三に
「三従の恩愛男に離れて便りなし」
(三従の恩愛により女は男から離れては頼る者がいない)
とあるなど、日本の中世社会にも「三従」の思想は定着していた。
鎌倉時代に『御成敗式目』を制定した幕府の執権北条泰時は、制定について記した書状に、
「従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはば」
と書いており、妻は夫に従うべきものという北条泰時の道徳観が表れている。
これも「三従」の影響であろう。
しかし、『御成敗式目』の法令自体には、女性を従属者とみなす内容はほとんどみられない。
また、仏教においては、『法華経』 第十二章 「提婆達多品」 (だいばだつたほん) で 女性には 「五障」 があり、すなわち梵天・帝釈天・魔王・転輪聖王 (てんりんじょうおう)・仏身に女性はなることはできないとしている。
また、男子に姿を変えることによって成仏できる「変成(へんじょう)男子」の思想が日本で広まり、さらに、室町時代に中国から日本に入ってきた『血盆経』は、女性が出産や月経の血で地をけがす存在であるとして地獄に落ちるとした。
これらは、日本の中世社会において女性への差別を増長させたと考えられている。
しかし、1552年1月29日(コーチン発)フランシスコ・ザビエル書簡(ヨーロッパのイエズス会員宛)には、次のような興味深い記述がある。
彼等(日本の坊主達)はさらに、これらの五戒を護らない女性達には地獄から逃れるすべがまったくないと説教しています。
そして、月経があるために、どの女性も世の中の男性のすべてが持っているよりも深い罪を持っている、と理屈をつけて、女性のような穢れた者が救われることは難しい、と述べています。
しかし、女性達が男性達以上に多くの喜拾をするならば、地獄から逃れる方法が必ず彼女達にある、と最後に話します。
そして、月経があるために、どの女性も世の中の男性のすべてが持っているよりも深い罪を持っている、と理屈をつけて、女性のような穢れた者が救われることは難しい、と述べています。
しかし、女性達が男性達以上に多くの喜拾をするならば、地獄から逃れる方法が必ず彼女達にある、と最後に話します。
つまり仏教の僧侶たちは、女性は月経のために男性より深い罪を負い地獄に落ちるが、自分たち僧侶に男性よりも多くの寄進をすれば地獄に落ちなくてすむ、と女性たちに説教をして彼女たちから多くの金銭を得たというのである。
「五障」「変成男子」『血盆経』の思想が広まったのは、女性への差別観だけでなく、寺院の僧侶たちが経済的収入を増やすために利用した面もあったといえよう。
一方、中世の日本には、女性の力を認める考えが存在したことも事実である。
慈円の著した史書『愚管抄』巻六の次の文は有名である。
女人入眼の日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ。
鎌倉時代の初めに、関東の幕府では北条正子とその弟北条義時が政治を行い、京都の朝廷では後鳥羽上皇の女房の卿二位(藤原兼子)が権勢を誇り、慈円は、位記に最後に氏名を書き入れるごとく女性が政治の最後の仕上げをすることはますます本当のことである、としている。
女性による政治を認める思想は、元関白の一条兼良が室町幕府の若き将軍足利義尚(よしひさ)のために文明十二年(1480年)に著した『樵談治要』(しょうだんりよう)にも、「簾中 (れんちゅう)より政務ををこなはるる事」として書かれている。
此日本国をば姫氏王国といひ、又倭王国と名付て、女のおさむべき国といへり。
されば天照大御神は始祖の陰神也。
神功皇后は中興の女王たり。
此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが、新羅・百済などをせめなびかして足原国をおこし給へり。
日出かりし事ども也。
又推古天皇も女にて、朝のまつり事を行ひ給ひし時、聖徳太子は摂政し給て、十七カ条の憲法などさだめさせ給へり。
其後皇極・持統・元明・元正・孝謙の五代も皆女にて位に付、政りおさめ給へり。
(中略)
ちかくは鎌倉の右大臣の北の方尼二位正子と申しは、北条の四郎平の時政がむすめにて二代将軍の母なり。
大将のあやまりあることをも此二位の教訓し侍(はべり)し也。
大将の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有りしかば、承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名に廻文をまはし下知し侍りけり。
(中略)
されば男女によらず天下の道理にくらからずば、政道の事、補佐の力を合をこなひ給はん事、さらにわづらいひ有べからずと覚侍り。
されば天照大御神は始祖の陰神也。
神功皇后は中興の女王たり。
此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが、新羅・百済などをせめなびかして足原国をおこし給へり。
日出かりし事ども也。
又推古天皇も女にて、朝のまつり事を行ひ給ひし時、聖徳太子は摂政し給て、十七カ条の憲法などさだめさせ給へり。
其後皇極・持統・元明・元正・孝謙の五代も皆女にて位に付、政りおさめ給へり。
(中略)
ちかくは鎌倉の右大臣の北の方尼二位正子と申しは、北条の四郎平の時政がむすめにて二代将軍の母なり。
大将のあやまりあることをも此二位の教訓し侍(はべり)し也。
大将の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有りしかば、承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名に廻文をまはし下知し侍りけり。
(中略)
されば男女によらず天下の道理にくらからずば、政道の事、補佐の力を合をこなひ給はん事、さらにわづらいひ有べからずと覚侍り。
ここでは、天照大御神・神功皇后、六人の女性天皇と北条正子などを挙げ、男であれ女であれ、天下の道理をよくわかっている人物であれば、政治を行うのは当然である、としている。
この『樵談治要』は、前将軍足利義政の正室である日野富子の時代に書かれたので、当時権力があった富子のことを考慮して書いたものであるという見方がある。
しかし、富子の死後30年以上たった大永8年(1528年)に伊勢貞頼が著した武家故実書『宗五大草紙』(そうごおおぞうし)にも、
「此日本国中ハ倭国とて女もおさめ侍るべき国也」
として『樵談治要』と同じような内容を書いており、「されば男女によるべからず」とある。
『樵談治要』の「女のおさむるべき国」は、富子への配慮ばかりではないといえよう。
中世社会には、「三従」の思想など女性への蔑視観があったが、一方では、女性も政道をわきまえていれば政治を行うのは当然であるとする、実力重視の男女平等もまた存在したのである。
中世の日本では、ジェンダー(社会・文化的性差)は同時代のヨーロッパよりは少なかったのではないだろうか。
日本人の生活文化
(1)中世日本は世界で最も現代思想に近かった
(2)中世日本の夫婦のあり方 ① 夫と妻と妾
(3)中世日本の夫婦のあり方 ② 夫婦別財
(4)中世日本は離婚が多い国だった
(5)中世日本では男色も普通だった\(^o^)/
(6)中世日本の毎日の食事
(7)中世日本ではすでに普及していた教育
(8)中世日本の節分
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