◆ 沖縄になかった台湾之塔を一途な心で建立 [ ◆ 沖縄・尖閣諸島・竹島・北方領土]
PEARL JAM ~ Black (1991)
沖縄考
摩文仁の丘になかった台湾之塔
一途な心で建立
2020.12.01
(special.sankei.com/a/society/article/20201201/0001.html )
台湾之塔の建立に尽力した許光輝さんと、李登輝元総統の石碑=沖縄県糸満市の摩文仁の丘
沖縄の聖地といえば、糸満市の摩文仁(まぶに)の丘の、平和祈念公園だろう。
沖縄戦最後の激戦地で、国立戦没者墓苑のほか全国各県・各団体の慰霊塔が並んでいる。
台湾出身の許光輝(きょ・みつてる)さん(55)がこの地を訪れたのは12年前だ。
そして驚いた。
韓国の慰霊塔があるのに、台湾のはないからだ。
先の大戦で日本のために戦い、戦没した台湾籍日本兵は約3万人。
朝鮮籍戦没兵の約2万2千人より多い。
「同胞の塔を建立しなければ」――。
許さんの、一途(いちず)な心に火がついた。
× × ×
沖縄と台湾の関係は深い。
一例を挙げれば日本統治時代の台湾・澎湖(ほうこ)諸島で行政トップの庁長を務めたのは、戦後に琉球政府行政主席となる沖縄の政治家、大田政作氏である。
許さんは、その澎湖諸島で生まれ育った。
卒業した馬公高校は大田氏が創設した名門校だ。
台湾の大学を卒業後、琉球大大学院に進学した許さんは、台湾に戻って大学助教授の職を得てからも沖縄との関わりを大切にしてきた。
そんな親日家が始めた「台湾之塔」の建立運動を、沖縄の人々も応援した。
平成24年には県議会が建立に向けた陳情を全会一致で採択。
25年からは台湾籍戦没者の慰霊祭も行われるようになった。
だが、やがて大きな壁にぶつかる。
用地が見つからないのだ。
摩文仁の丘を管理する県当局に提供を求めたものの、台湾当局など公的機関の申請でなければ応じられないという。
資金不足などの問題もあり、運動は行き詰まった――。
――と、ここで強力な助っ人が現れる。
特攻隊の英霊たちである。
× × ×
27年10月31日、許さんは同志の仲間とともに、摩文仁の丘の南端にある「空華(くげ)之塔」で、特攻隊ら航空関係戦没者の慰霊祭に参列した。
その数カ月前、この塔のそばに、慰霊祭を主催する沖縄翼友会が土地を持っていると知った。
私有地なら県の許可はいらない。
お借りしたいと申し入れたが、返事はなかった。
そこで慰霊祭の後、改めてお願いするつもりだったのだ。
沖縄に秋の到来を告げる、北からの風が吹く日だった。
その風にのって、翼友会幹部が読み上げる追悼の言葉が南へ流れた。
許さんは、はたと耳を澄ます。
「台湾」の言葉が聞こえた。
「先の大戦で日本の陸海軍機の大半が台湾の基地を経由し、南方戦線へ飛び立っていきました。
傷ついた兵も機体も、台湾で癒やしてもらいました。
ほかにも戦時中、多くの航空機が台湾のお世話になっています。
慰霊塔の建立地を提供することが恩返しの一端となれば、これに過ぎるものはありません」
用地の提供を、英霊に報告しているのである。
許さんは、泣いた。
翌年6月、摩文仁の丘に54番目の慰霊塔が完成する。
「台湾之塔」である。
30年には、さらにうれしいことがあった。
李登輝元総統が石碑に「為国作見證(公のために尽くす)」の揮毫(きごう)を寄せてくれたのだ。
李氏は、石碑の除幕式にも出席した。
それが李氏の、最後の訪日となった。
「総統は、誰より日台の親善を考えた人でした。
この石碑と台湾之塔は、その象徴なのです」
石碑を愛(いと)おしそうにさすりながら、許さんは、今夏に逝去した李氏をしのんだ。(那覇支局長 川瀬弘至)
摩文仁の丘になかった台湾之塔
一途な心で建立
2020.12.01
(special.sankei.com/a/society/article/20201201/0001.html )
台湾之塔の建立に尽力した許光輝さんと、李登輝元総統の石碑=沖縄県糸満市の摩文仁の丘
沖縄の聖地といえば、糸満市の摩文仁(まぶに)の丘の、平和祈念公園だろう。
沖縄戦最後の激戦地で、国立戦没者墓苑のほか全国各県・各団体の慰霊塔が並んでいる。
台湾出身の許光輝(きょ・みつてる)さん(55)がこの地を訪れたのは12年前だ。
そして驚いた。
韓国の慰霊塔があるのに、台湾のはないからだ。
先の大戦で日本のために戦い、戦没した台湾籍日本兵は約3万人。
朝鮮籍戦没兵の約2万2千人より多い。
「同胞の塔を建立しなければ」――。
許さんの、一途(いちず)な心に火がついた。
× × ×
沖縄と台湾の関係は深い。
一例を挙げれば日本統治時代の台湾・澎湖(ほうこ)諸島で行政トップの庁長を務めたのは、戦後に琉球政府行政主席となる沖縄の政治家、大田政作氏である。
許さんは、その澎湖諸島で生まれ育った。
卒業した馬公高校は大田氏が創設した名門校だ。
台湾の大学を卒業後、琉球大大学院に進学した許さんは、台湾に戻って大学助教授の職を得てからも沖縄との関わりを大切にしてきた。
そんな親日家が始めた「台湾之塔」の建立運動を、沖縄の人々も応援した。
平成24年には県議会が建立に向けた陳情を全会一致で採択。
25年からは台湾籍戦没者の慰霊祭も行われるようになった。
だが、やがて大きな壁にぶつかる。
用地が見つからないのだ。
摩文仁の丘を管理する県当局に提供を求めたものの、台湾当局など公的機関の申請でなければ応じられないという。
資金不足などの問題もあり、運動は行き詰まった――。
――と、ここで強力な助っ人が現れる。
特攻隊の英霊たちである。
× × ×
27年10月31日、許さんは同志の仲間とともに、摩文仁の丘の南端にある「空華(くげ)之塔」で、特攻隊ら航空関係戦没者の慰霊祭に参列した。
その数カ月前、この塔のそばに、慰霊祭を主催する沖縄翼友会が土地を持っていると知った。
私有地なら県の許可はいらない。
お借りしたいと申し入れたが、返事はなかった。
そこで慰霊祭の後、改めてお願いするつもりだったのだ。
沖縄に秋の到来を告げる、北からの風が吹く日だった。
その風にのって、翼友会幹部が読み上げる追悼の言葉が南へ流れた。
許さんは、はたと耳を澄ます。
「台湾」の言葉が聞こえた。
「先の大戦で日本の陸海軍機の大半が台湾の基地を経由し、南方戦線へ飛び立っていきました。
傷ついた兵も機体も、台湾で癒やしてもらいました。
ほかにも戦時中、多くの航空機が台湾のお世話になっています。
慰霊塔の建立地を提供することが恩返しの一端となれば、これに過ぎるものはありません」
用地の提供を、英霊に報告しているのである。
許さんは、泣いた。
翌年6月、摩文仁の丘に54番目の慰霊塔が完成する。
「台湾之塔」である。
30年には、さらにうれしいことがあった。
李登輝元総統が石碑に「為国作見證(公のために尽くす)」の揮毫(きごう)を寄せてくれたのだ。
李氏は、石碑の除幕式にも出席した。
それが李氏の、最後の訪日となった。
「総統は、誰より日台の親善を考えた人でした。
この石碑と台湾之塔は、その象徴なのです」
石碑を愛(いと)おしそうにさすりながら、許さんは、今夏に逝去した李氏をしのんだ。(那覇支局長 川瀬弘至)
澎湖諸島は台湾の「台」の字の沖合にあります。
Billboard HARD ROCK ALBUMS
(2020.12.05 付)
No.4 (Up-15 / 81weeks in chart)
PEARL JAM『TEN』(1991)
(tower.jp/item/500323/TEN )
(2020.12.05 付)
No.4 (Up-15 / 81weeks in chart)
PEARL JAM『TEN』(1991)
(tower.jp/item/500323/TEN )