◆ 第2章 (5) 演繹より帰納重視の教授法 [ ❒ 新しい神の国(古田博司著)]
Tibetan Song ཚོང་གཡོག་གི་བཤད་པ by Kelsang Yudron (2013)
古田博司著『新しい神の国』
第2章 マルクスどもが夢のあと
5. 演繹(えんえき)より帰納重視の教授法
そのような国際政治学者の書いた、冷戦時代の二元均衡型・仲良し世界観を大学で教えたとて、もはやどのような意味があるのだろうか。
わが身の周りを見わたせば、中国は2000年に入ってからの日本領海の原潜による侵犯、尖閣諸島・魚釣島への不法上陸、日本海海域に隣接した東シナ海のガス田採掘施設工事の着工などと連動して自らの意図を浮き彫りにしつつある。
北朝鮮に至っては、核・ミサイルによる威嚇、拉致被害者全員送還の拒否とごまかし、麻薬、偽札、偽たばこ、イランへの武器輸出など、「悪の “朝鮮王朝” 」となり果てている。
いわば、よろぼいた壊屋に麻薬偽札強盗どもが立てこもり、板は剥がれ屋根はくずれ、電気も水も止まった中で、窓辺に迫撃砲を据えてまわりを睨み回しているような不穏な状況が続いているのである。
筆者の大学院ゼミでは、2004年頃まで、それでも演繹な思考 (理論やモデルを基に、事象を当てはめて行く考え方) が研究の基礎には必要なことだと考え、大社会科学者や国際政治学者の書物をテキストとして選んできたのだがいかんせん、もういけない。
何を読んでも古くさくて、現実からの乖離が甚だしすぎるのである。
そこで、今ではもう完全にそのような試みは諦めてしまった。
それではどうしているのかと言えば、朝鮮労働党の機関紙 『労働新聞』 という原資料をそのままテキストにして、院生一人一人にその一年分をまかせて発表させる。
政治・経済・軍事・思想・教育・芸術などの抽出すべき指標をあらかじめ立てて置いて、年号日付で年表のように羅列したレジュメを作らせ、原資料のコピーを院生の人数分配布させる。
君は1973年分、君は1974年分、というように調査の期間を長く取って大きく割り振るので、図書館のマイクロリーダーでは無理があるため、研究室にマイクロリーダーを常設した。
もちろん科学研究費助成などは、うちの北朝鮮研究室などにくれた試しがないので、全部故人研究費でまかなったのである。
はじめはモデルも何もなく、原資料からそのまま重要事項を切り取れるか心配だったのだが、今の学生はわれわれの世代よりずっと民度が高く、大先生のモデルの本などはパラパラと自分でめくり読んで適当に摂取し、それを決して金科玉条のように信じはしない。
もともとの頭がよほど帰納的 (個々の事象から原理やモデルを導く) である。
これにはインターネットの影響があるかも知れない。
もう学生の頭に何か縛りを置くことは徹底的に諦め、多くの学生たちの好きなようにさせ、彼らと一緒にレジュメと原資料のコピーを読みつつ、共に相談しながらそこから一貫した何かを探りあてるという、帰納的教授法の方が圧倒的に有意義である。
そしてそのような才能に恵まれているのは、じつは世にオタクと呼ばれている学生たちなのである。
オタクは周知のように、道徳や礼儀の面が往々にして弱い。
アメリカのような法とプロテスタントの国であれば規範がきついので、外側からの抑えが結構効くものである。
日本ではそうではないので、嗜好に対する過度の執着や度を越した内面逃避はいけないという世の掟を別に教えねばならない。
ゲーム系のオタクにはあらかじめ遠慮いただくことが多いが、他は「感謝・愛情・尊敬」を祝詞のように繰り返して不気味さを祓い、課題を与えて成就感を得させていく。
このようにすればオタクは研究者の宝庫であり、私の研究室ではこれまでに多くのオタクを更生させ、社会の維持にとって必要な実務家を輩出してきた。
10年くらい前には放送局員や新聞記者なども輩出したが、だいたい夜明けに鶏が三度鳴く前に「古田なんか知らない」と言いそうな輩ばかりなので、ばかばかしくなって止めてしまった。
うちでもその頃にはマルクスやウェーバーをゼミのテキストにしていたのだから、いまでは隔世の感を禁じ得ないのである。
第2章 マルクスどもが夢のあと
5. 演繹(えんえき)より帰納重視の教授法
そのような国際政治学者の書いた、冷戦時代の二元均衡型・仲良し世界観を大学で教えたとて、もはやどのような意味があるのだろうか。
わが身の周りを見わたせば、中国は2000年に入ってからの日本領海の原潜による侵犯、尖閣諸島・魚釣島への不法上陸、日本海海域に隣接した東シナ海のガス田採掘施設工事の着工などと連動して自らの意図を浮き彫りにしつつある。
北朝鮮に至っては、核・ミサイルによる威嚇、拉致被害者全員送還の拒否とごまかし、麻薬、偽札、偽たばこ、イランへの武器輸出など、「悪の “朝鮮王朝” 」となり果てている。
いわば、よろぼいた壊屋に麻薬偽札強盗どもが立てこもり、板は剥がれ屋根はくずれ、電気も水も止まった中で、窓辺に迫撃砲を据えてまわりを睨み回しているような不穏な状況が続いているのである。
筆者の大学院ゼミでは、2004年頃まで、それでも演繹な思考 (理論やモデルを基に、事象を当てはめて行く考え方) が研究の基礎には必要なことだと考え、大社会科学者や国際政治学者の書物をテキストとして選んできたのだがいかんせん、もういけない。
何を読んでも古くさくて、現実からの乖離が甚だしすぎるのである。
そこで、今ではもう完全にそのような試みは諦めてしまった。
それではどうしているのかと言えば、朝鮮労働党の機関紙 『労働新聞』 という原資料をそのままテキストにして、院生一人一人にその一年分をまかせて発表させる。
政治・経済・軍事・思想・教育・芸術などの抽出すべき指標をあらかじめ立てて置いて、年号日付で年表のように羅列したレジュメを作らせ、原資料のコピーを院生の人数分配布させる。
君は1973年分、君は1974年分、というように調査の期間を長く取って大きく割り振るので、図書館のマイクロリーダーでは無理があるため、研究室にマイクロリーダーを常設した。
もちろん科学研究費助成などは、うちの北朝鮮研究室などにくれた試しがないので、全部故人研究費でまかなったのである。
はじめはモデルも何もなく、原資料からそのまま重要事項を切り取れるか心配だったのだが、今の学生はわれわれの世代よりずっと民度が高く、大先生のモデルの本などはパラパラと自分でめくり読んで適当に摂取し、それを決して金科玉条のように信じはしない。
もともとの頭がよほど帰納的 (個々の事象から原理やモデルを導く) である。
これにはインターネットの影響があるかも知れない。
もう学生の頭に何か縛りを置くことは徹底的に諦め、多くの学生たちの好きなようにさせ、彼らと一緒にレジュメと原資料のコピーを読みつつ、共に相談しながらそこから一貫した何かを探りあてるという、帰納的教授法の方が圧倒的に有意義である。
そしてそのような才能に恵まれているのは、じつは世にオタクと呼ばれている学生たちなのである。
オタクは周知のように、道徳や礼儀の面が往々にして弱い。
アメリカのような法とプロテスタントの国であれば規範がきついので、外側からの抑えが結構効くものである。
日本ではそうではないので、嗜好に対する過度の執着や度を越した内面逃避はいけないという世の掟を別に教えねばならない。
ゲーム系のオタクにはあらかじめ遠慮いただくことが多いが、他は「感謝・愛情・尊敬」を祝詞のように繰り返して不気味さを祓い、課題を与えて成就感を得させていく。
このようにすればオタクは研究者の宝庫であり、私の研究室ではこれまでに多くのオタクを更生させ、社会の維持にとって必要な実務家を輩出してきた。
10年くらい前には放送局員や新聞記者なども輩出したが、だいたい夜明けに鶏が三度鳴く前に「古田なんか知らない」と言いそうな輩ばかりなので、ばかばかしくなって止めてしまった。
うちでもその頃にはマルクスやウェーバーをゼミのテキストにしていたのだから、いまでは隔世の感を禁じ得ないのである。
平成20年度 国公私立・分野別交付決定状況一覧
(www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/04/08042512/001.pdf )
この中(↑)に平成20年度の「国公私立・分野別交付決定状況一覧」があります。
私たちの税金から、それぞれの大学に、いくら交付されているのか、というものです。
「天下のアカ・東京大学」がトップの「20億8000万円」。
この古田教授のおられる「筑波大学」は、何かは分かりませんがプログラムの 1つが大阪大学と連携しているそうですけれど、それ以外の交付金は「1億3700万円」です。
新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )
第2章 マルクスどもが夢のあと
1.歴史的必然を信じた人々
2.偽の近代精神の自滅
3.ポスト近代におけるマルクスの残留思念
4.もっと現実的になるべきではないか
5.演繹より帰納重視の教授法
6.教養は教えられるか
日本は東アジアの一員じゃない
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