◆ 第4章 日本文明圏の再考 (1) 中世朝鮮の墓暴き乱闘事件 [ ❒ 新しい神の国(古田博司著)]
MEGADETH ~ 13 (2011)
古田博司著『新しい神の国』
第4章 日本文明圏の再考
風水図と化した平壌。平壌大同江畔にない建物まで集められ
ている。(「チュチェ芸術」外国文出版社 1976年 平壌)
1. 中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
時は18世紀初頭、李朝時代の後期、慶尚道の星州である墓争いが起きた。
この事件を国王に報告したのは、王権を脅かす重罪人を主に審問する義禁府の主職であったから、ことは尋常ではない。
義禁府の記録を見ると、この時、朴慶余(ぼくけいよ)と朴寿河(ぼくじゅが)両家の間で山の所有をめぐって争いがじていた。
朝鮮の墓はみな日当たりの良い山の中腹にあるから、山争いはすなわち墓争いとなる。
18世紀頃から李朝の崩壊まで、朝鮮半島ではこの墓争いが熾烈を極め、地方政治は完全に紊乱(びんらん)してしまう。
朴寿河の息子の訴状によれば、
「近頃、人の墳山を奪う弊害が次々と起こっている。朴家の塚を掘り、柩(ひつぎ)を焼き、私(ひそか)に攻め殺すなどという変事があってよいものか。家の勢力の強弱で査察に手加減を加えるようなことがあれば、厳正にいさめるべきである」
とある。
さて一体何が起きたものか。
両家は朴という姓だが、全く血縁を別にしている。兄弟でもなんでもない。
そこで話の都合上、紛らわしいので、名前の頭文字をとって前者を K 家、後者を J 家と仮に呼ぶことにしよう。
そしてその後、宮中でのやり取りを王側の日記(『承政院日記』「雍正4年12月20日丁丑晴条」に最も詳しい)でたどっていくと、しだいに恐るべき事実が明らかになっていった。
両家の山争いはまず地方の役所のお白州で始まったが、役所の長は既に有力な K 家と結託していた。
その結果、J 家の朴寿河が弁論すると、たちまち長を侮辱したと取られ、捕えられて殺されてしまった。
その死体は、4か月行方不明となった。
J 家の娘、朴文娘(ぼくぶんじょう)は悲しみのあまり激昂し、K 家の墓に行って、塚を掘り返し、柩を炭で焼いたという。
K 家の家人がこの変事を聞き、墓を移そうとしたが、J 家の来襲を恐れ、装丁数百人で山を占拠した。
このとき、K 家のあるものが朴文娘に伝えた。「お前の母の墓を暴いて炭焼きの復讐をしてやる」 と。
朴文娘はこれを聞き、村人や下僕を麓に隠し、両手に刀をひっさげて、馬で山を駆けのぼり、K 家のものたちの間に突入しようとしたのであった。
ところが、彼女は遮られ、馬から引きずりおろされた。
だが、烈女の気性はその辱めに忍びず、刀をとって己の首を貫き、その場で果てたのであった。
それを見ていた朴文娘の下女が「人殺し!」と大声で叫ぶや、麓にいた J 家のものたちがどっと山に押し寄せ、K 家の家人たちに襲いかかった。
K 家のものたちは四散したが、逃げ遅れた老人と五親等の男子が捕えられ、老人はその場で蹴り殺された。
後に、中央から派遣された役人が当地に入り、調査したところ、J 家の家中で老人の遺体が発見された。
五親等の男子は朴文娘殺しとして捕えられ、そのまま 10年以上も家の中の獄につながれていたことがわかった。
さて、この事件の結末はどうなっただろうか。
なんと王や大臣たちは、朴文娘の豪胆さをほめ、あっぱれな烈女として表彰したのであった。
朴文娘の墓暴きが対立に火を注いだことを知りながら、この地方の両班知識人たちはその事実を覆い隠し、彼女の孝徳をひたすら褒め称えたのであった。
事件発生から 14年後、墓暴き乱闘事件はこのように幕を閉じた。
第4章 日本文明圏の再考
風水図と化した平壌。平壌大同江畔にない建物まで集められ
ている。(「チュチェ芸術」外国文出版社 1976年 平壌)
1. 中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
時は18世紀初頭、李朝時代の後期、慶尚道の星州である墓争いが起きた。
この事件を国王に報告したのは、王権を脅かす重罪人を主に審問する義禁府の主職であったから、ことは尋常ではない。
義禁府の記録を見ると、この時、朴慶余(ぼくけいよ)と朴寿河(ぼくじゅが)両家の間で山の所有をめぐって争いがじていた。
朝鮮の墓はみな日当たりの良い山の中腹にあるから、山争いはすなわち墓争いとなる。
18世紀頃から李朝の崩壊まで、朝鮮半島ではこの墓争いが熾烈を極め、地方政治は完全に紊乱(びんらん)してしまう。
朴寿河の息子の訴状によれば、
「近頃、人の墳山を奪う弊害が次々と起こっている。朴家の塚を掘り、柩(ひつぎ)を焼き、私(ひそか)に攻め殺すなどという変事があってよいものか。家の勢力の強弱で査察に手加減を加えるようなことがあれば、厳正にいさめるべきである」
とある。
さて一体何が起きたものか。
両家は朴という姓だが、全く血縁を別にしている。兄弟でもなんでもない。
そこで話の都合上、紛らわしいので、名前の頭文字をとって前者を K 家、後者を J 家と仮に呼ぶことにしよう。
そしてその後、宮中でのやり取りを王側の日記(『承政院日記』「雍正4年12月20日丁丑晴条」に最も詳しい)でたどっていくと、しだいに恐るべき事実が明らかになっていった。
両家の山争いはまず地方の役所のお白州で始まったが、役所の長は既に有力な K 家と結託していた。
その結果、J 家の朴寿河が弁論すると、たちまち長を侮辱したと取られ、捕えられて殺されてしまった。
その死体は、4か月行方不明となった。
J 家の娘、朴文娘(ぼくぶんじょう)は悲しみのあまり激昂し、K 家の墓に行って、塚を掘り返し、柩を炭で焼いたという。
K 家の家人がこの変事を聞き、墓を移そうとしたが、J 家の来襲を恐れ、装丁数百人で山を占拠した。
このとき、K 家のあるものが朴文娘に伝えた。「お前の母の墓を暴いて炭焼きの復讐をしてやる」 と。
朴文娘はこれを聞き、村人や下僕を麓に隠し、両手に刀をひっさげて、馬で山を駆けのぼり、K 家のものたちの間に突入しようとしたのであった。
ところが、彼女は遮られ、馬から引きずりおろされた。
だが、烈女の気性はその辱めに忍びず、刀をとって己の首を貫き、その場で果てたのであった。
それを見ていた朴文娘の下女が「人殺し!」と大声で叫ぶや、麓にいた J 家のものたちがどっと山に押し寄せ、K 家の家人たちに襲いかかった。
K 家のものたちは四散したが、逃げ遅れた老人と五親等の男子が捕えられ、老人はその場で蹴り殺された。
後に、中央から派遣された役人が当地に入り、調査したところ、J 家の家中で老人の遺体が発見された。
五親等の男子は朴文娘殺しとして捕えられ、そのまま 10年以上も家の中の獄につながれていたことがわかった。
さて、この事件の結末はどうなっただろうか。
なんと王や大臣たちは、朴文娘の豪胆さをほめ、あっぱれな烈女として表彰したのであった。
朴文娘の墓暴きが対立に火を注いだことを知りながら、この地方の両班知識人たちはその事実を覆い隠し、彼女の孝徳をひたすら褒め称えたのであった。
事件発生から 14年後、墓暴き乱闘事件はこのように幕を閉じた。
新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )
第4章 日本文明圏の再考
1.中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
2.宗族という異質な社会
3.靖国の誤解をただす
4.日本文明の写実性
5.現実性と写実性の狭間で
6.古代や中世に固着する東アジア
◆ 日本は「東アジア」の一員じゃない
メガデスの曲作りの様子が、時々、1 分くらいの動画で紹介されますが、ムステインか誰かのワンちゃんが、すっごい良い味を出してるので、それを載せたいのですけれど、ちょっと短すぎるので、えっ、見たいですか? ではw(↓)
Megadeth at Vic's Garage - Studio Update #8 February 2013x
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