◆ 第7章 (4) 東アジア諸国民に日本の和は通じない [ ❒ 新しい神の国(古田博司著)]
H.E.A.T ~ In And Out Of Trouble (2013)
古田博司著『新しい神の国』
第7章 和人たちの夏
4. 東アジア諸国民に日本の和は通じない
ただ東アジア諸国民に対して、これを持ちこむことはいかにもうまくない。
日本の政治家がこれをスローガンに掲げて、「仲良くしようよ」と歩み寄っても、彼らには通じるはずがないのである。
なぜならば、聖徳太子の十七条憲法第一条の「和をもって貴しと為す」というのは、
・『論語』学而篇では「礼の用は和を貴しと為す」
・『礼記(らいき)』儒行篇では「礼は和を以て貴しと為す」
というのが全文であって、そもそも「みんなで仲良くしよう」などという意味ではないからである。
まず、礼というのは日本文明圏におけるようなお礼・挨拶・おじぎ等のことではない。
荻原徂徠が「小笠原などの諸礼故実を習うがごとし」(『経子史要覧』「経要覧」礼記)といっているように、シナ古代の冠婚葬祭や宴会でのマナーのことなのである。
行儀作法・身体技法・行動規範などの訳があるが、いずれも意を尽くせない。
というのも、それらのマナーには規範意識や道徳があらかじめ宿っていて、それらを外す者を無礼者と見るからである。
そこで場合によっては、道義とか訳さなければならないことがある。
儒教が知識人のお遊びに過ぎなかった日本では、その根本が祖先崇拝の教義であることがすっぽりと抜け落ちている。
儒教の世界では、キリスト教や、イスラム教や、ヒンズー教や、神道のようには、祖先の霊はあの世には行かない。
全部この世に残って、生きているときと同じように飯を食うのである。
始皇帝陵などで、生前と同様の生活が送れるように地下世界を築き上げる、あの発想と同じである。
そこでシナ古典の『儀礼(ぎらい)』などという書物では、この世に残る死者の霊にどのように飯を食わせるかというマナーが、喪礼の最大関心事ということで、つまびらかに解説がなされている。
まず葬式で埋葬する前に、柩のなかに羊の肉と豚の肉を藁笣に詰めて、あらかじめ入れてしまう。
祖先が腹がへるといけないからである。
埋葬後のお祀り(土虞礼=どぐれい)をするときには、一族の子供を形代(かたしろ)に立て、死んだ祖先に見立ててまた食わせる。
どうやって飯を食わせるかという順序が全部決まっていて、それをここでは虞礼というのである。
また羊の内臓を死者のために祀るのだが、その生の内臓がうまそうにテーブルから垂れて、脚の横木に掛かるまで垂らせなどと書いてある(少牢鞼食礼=しょうろうきしれい)。
要するにこれらをしくじると、無礼者になるわけである。
現代では、もうこのような古代の礼はすっかり廃れているが、食べ方のマナーなどには少し残っていて、中国人や韓国人はまず食卓上、箸を縦に揃えて置こうとする。
日本文明圏では箸は横置きであるから、こんな無作法を見ると、彼らの中の礼にうるさい者であれば、その箸をとって、バシッと音を立てて置き替えることがある。
夷狄の無作法をただすのである。
そして、なんと道徳的に劣った東夷和人であることかと、侮蔑をあらたにする。
韓国では、箸だけでなく、魚屋の魚のならべ方まで縦である。
韓国の知人と市場を歩いていて、ふと魚屋の前で足が止まった。
「横の方が魚全体の大きさが見えて便利なのに」というと、彼いわく、「いや、川というものはこう流れている」と手振りで縦に川を流した。
このような人々の国では、当然のことのように文化人類学というものはあまり発達しない。
自分の文明以外に他の文明があることを明確に認識できないからである。
これを日本の学術用語で、「中華思想」という。 (← wwwww)
さてこのようなわけであるから、冒頭の
・「礼の用は和を貴しと為す」(『論語』)
・「礼は和を以て貴しと為す」(『礼記』)
という儒教経典の語句の意味は、「中華の礼儀作法の効果をよくわきまえて、そのマナーで人々を和合させ、社会の調和をめざそう」という意味なのである。
ありていに言えば、「中華式にやろうじゃないか」ということである。
とにかく「仲良くしよう」などという、日本文明圏の和の世界は、向こうが予(あらかじ)め知っていて外交上の戦略として用いるならばいざしらず、まずは通じないものと思った方がよいであろう。
第7章 和人たちの夏
4. 東アジア諸国民に日本の和は通じない
ただ東アジア諸国民に対して、これを持ちこむことはいかにもうまくない。
日本の政治家がこれをスローガンに掲げて、「仲良くしようよ」と歩み寄っても、彼らには通じるはずがないのである。
なぜならば、聖徳太子の十七条憲法第一条の「和をもって貴しと為す」というのは、
・『論語』学而篇では「礼の用は和を貴しと為す」
・『礼記(らいき)』儒行篇では「礼は和を以て貴しと為す」
というのが全文であって、そもそも「みんなで仲良くしよう」などという意味ではないからである。
まず、礼というのは日本文明圏におけるようなお礼・挨拶・おじぎ等のことではない。
荻原徂徠が「小笠原などの諸礼故実を習うがごとし」(『経子史要覧』「経要覧」礼記)といっているように、シナ古代の冠婚葬祭や宴会でのマナーのことなのである。
行儀作法・身体技法・行動規範などの訳があるが、いずれも意を尽くせない。
というのも、それらのマナーには規範意識や道徳があらかじめ宿っていて、それらを外す者を無礼者と見るからである。
そこで場合によっては、道義とか訳さなければならないことがある。
儒教が知識人のお遊びに過ぎなかった日本では、その根本が祖先崇拝の教義であることがすっぽりと抜け落ちている。
儒教の世界では、キリスト教や、イスラム教や、ヒンズー教や、神道のようには、祖先の霊はあの世には行かない。
全部この世に残って、生きているときと同じように飯を食うのである。
始皇帝陵などで、生前と同様の生活が送れるように地下世界を築き上げる、あの発想と同じである。
そこでシナ古典の『儀礼(ぎらい)』などという書物では、この世に残る死者の霊にどのように飯を食わせるかというマナーが、喪礼の最大関心事ということで、つまびらかに解説がなされている。
まず葬式で埋葬する前に、柩のなかに羊の肉と豚の肉を藁笣に詰めて、あらかじめ入れてしまう。
祖先が腹がへるといけないからである。
埋葬後のお祀り(土虞礼=どぐれい)をするときには、一族の子供を形代(かたしろ)に立て、死んだ祖先に見立ててまた食わせる。
どうやって飯を食わせるかという順序が全部決まっていて、それをここでは虞礼というのである。
また羊の内臓を死者のために祀るのだが、その生の内臓がうまそうにテーブルから垂れて、脚の横木に掛かるまで垂らせなどと書いてある(少牢鞼食礼=しょうろうきしれい)。
要するにこれらをしくじると、無礼者になるわけである。
現代では、もうこのような古代の礼はすっかり廃れているが、食べ方のマナーなどには少し残っていて、中国人や韓国人はまず食卓上、箸を縦に揃えて置こうとする。
日本文明圏では箸は横置きであるから、こんな無作法を見ると、彼らの中の礼にうるさい者であれば、その箸をとって、バシッと音を立てて置き替えることがある。
夷狄の無作法をただすのである。
そして、なんと道徳的に劣った東夷和人であることかと、侮蔑をあらたにする。
韓国では、箸だけでなく、魚屋の魚のならべ方まで縦である。
韓国の知人と市場を歩いていて、ふと魚屋の前で足が止まった。
「横の方が魚全体の大きさが見えて便利なのに」というと、彼いわく、「いや、川というものはこう流れている」と手振りで縦に川を流した。
このような人々の国では、当然のことのように文化人類学というものはあまり発達しない。
自分の文明以外に他の文明があることを明確に認識できないからである。
これを日本の学術用語で、「中華思想」という。 (← wwwww)
さてこのようなわけであるから、冒頭の
・「礼の用は和を貴しと為す」(『論語』)
・「礼は和を以て貴しと為す」(『礼記』)
という儒教経典の語句の意味は、「中華の礼儀作法の効果をよくわきまえて、そのマナーで人々を和合させ、社会の調和をめざそう」という意味なのである。
ありていに言えば、「中華式にやろうじゃないか」ということである。
とにかく「仲良くしよう」などという、日本文明圏の和の世界は、向こうが予(あらかじ)め知っていて外交上の戦略として用いるならばいざしらず、まずは通じないものと思った方がよいであろう。
新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )
第7章 和人たちの夏
1.繰り返される儒教の独自解
2.日本的和の世界
3.嫌われることを恐れる心性
4.東アジア諸国民に日本の和は通じない
5.中華では存在すると思われる物は実在する
6.和は己を持って貴しとなす
7.最後に別々の残酷さを顧みる
◆ 日本は「東アジア」の一員じゃない
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