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◆ 第8章 (3) 存在すること自体にある美しさ [  ❒ 新しい神の国(古田博司著)]


唱歌「ふじの山」 (1911年・明治44年発表)
作詞: 巌谷小波
作曲 : 不詳




古田博司著新しい神の国

第8章 新しい神の国


3. 存在すること自体にある美しさ


さて、宮中の晩餐会の続きである。

豊明の間、ふと背後に目をやると、壁の三方に40人ほどの舎人(とねり)たちが、びっしり魚貫し列していた。


ディナーが始まると、前方右手の厨房への入り口が開き、舎人たちが次々とそこに吸い込まれていく。

その足運びの見事さ、忍びの者もかくあるか、まったく音が無い。


ふと気がつくと、自分の身体の真横に皿を持った手がすぅっと伸びてきて、菜をとるように無言で促す。


隣の貴婦人が、「先生、初めてでいらっしゃるのね。宅は4度目でございますのよ。これ御料牧場の牛ですの。美味しゅうございましょ」などとのたまう。

にわかに顔が赤らんで、ふたたび横を見ると、また別の皿がやってきていた。


その菜は、はて面妖な形で、手で取ってよいものか、箸で取るべきなのかわからない。

宮中で手で取って良いものなどないような気もする。

思いあまって、なにを以て取るべきやと、舎人に尋ねると、小声で 
「手っ、手っ・・・」
と、舎人の方がよい家柄らしく、上品に諭されてしまったのであった。


だが、このような雰囲気の中で、筆者はひそかに考えつづけていたのである。

伝統的な皇室の存在とは何なのか、天皇陛下がその位にいらっしゃる意味とは一体何なのであろうか。

ひょっとすると、それは「存在するということ自体に意義がある」ということなのではないのか。

そして、その存在とは、日本ではこれ以上の位にあるものはなく、かつ、私欲を滅却する存在でもある。


天皇皇后両陛下を始め皇室の方々は、公務以外では皇居という空間の外にさえ、私的に出ることがない。

後に茶会で再度参内した折、夜の皇居内を車で通ったのだが、皇居の中には古い武家屋敷の廃墟がいくつも闇に白く澱んでいた。

その前を過ぎるうちに、私の中に黒々と蟠(わだかま)っていた私欲や野望といったものが薄紙を剥ぐように、剥がれていったのを覚えている。


筆者は「天皇制」賛美者では勿論ないが、日本文明圏にこのように美しいものがよくも残ったものだ、という讃嘆を禁じえないのである。

そして誇りに思うよりも何よりも、率直に感じ入り、自ずと頭が下がった。


参内して初めてわかったのだが、この空間には態(わざ)とらしいものが露もないのである。

強制されるような雰囲気は全くない。

起立、礼もなければ、合図すらない。


晩餐会の最中、楽士の演奏があり、伝統的な音楽ばかりかと思いきや、モーツァルトの交響曲、「ふじの山」、「川の流れのように」、雅楽、おまけに韓国の酒場で聴くような歌謡曲 「カプトリとカプスニ」 など、まるで雑多で、楽しめばよいのだという気楽さに溢れていた。

食事の最中でも、言えば外に立てるのであり、喫煙所はあちこちにあり、菊の御紋章の恩賜の煙草まで置いてある。


品格と安堵の中、皆が食事を終えると、何処からともなく又すっと静まり、皇室の方々が立ち上がると、われわれも立ち上がり一礼をし、方々が部屋を去られると、皆も音もなく着席する。

そして、そのようにして、皇居の一夜はまったくの自然体で終わった。




唱歌ふじの山」 (1911年・明治44年発表)

「天皇」というと私は「富士山」のような存在に思えます。

富士山が見えない土地に住んでいると分からない感覚かも知れませんが、そこに在るのが当り前だけど、別に見えなくてもどーってことない。

だけど見えた時はなんとなく嬉しい。

そんな感じ。父というよりは母のような・・・




新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )

第8章 新しい神の国

1.天皇が大好きな韓国人
2.天皇をうらやましがった中国人
3.実在すること自体にある美しさ
4.裏切りつづける怨恨共同体
5.ポスト近代の新しい神々の国



文明の衝突
◆ 日本は東アジアの一員じゃない


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