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◆ フランクフルト学派 (トロイの木馬革命) 後編 [  ◆ マルクスからフランクフルト学派へ]

パトリック・J・ブキャナン著
宮崎哲弥監訳
病むアメリカ、滅びゆく西洋

2002年12月5日 成甲書房


第四章 セラピー大国はこうして生まれた


(1フランクフルト学派アメリカ上陸


1923年、フランクフルト大学において、
ルカーチとドイツ共産党員が
モスクワの『マルクス・エンゲルス研究所』に倣(なら)い、
『マルクス思想研究所』を旗揚げした。

やがて語感を和らげ、『社会研究所』と改名した。

これがいわゆるフランクフルト学派の前身である。


1930年、背教的マルキストにしてマルキ・ド・サドの崇拝者
マックス・ホルクハイマー
が同学派の中心的存在となる。

ホルクハイマーもまた、マルクスの読みは外れていたと結論づけた。

労働者階級は革命の先方には適さない、と。

すでに西洋の労働者たちは中産階級に移行しつつあった。

憎むべきブルジョワに、である。

1970年5月、ウォール街で
ニクソンのカンボジア侵攻に抗議するデモ隊が
建設作業員の一団に撃退される事件が起こったが、
とうの昔に労働者階級に失望していたマルキストらは
別段、驚きもしなかった。

件の作業員らの属する土建組合を束ねるピート・ブレナンは
その後、ニクソンの労働問題担当秘書官に就任する。


ホルクハイマーの指示により、
フランクフルト学派マルクス思想文化用語に翻訳しはじめた。

古臭い闘争マニュアルを捨て、新しいマニュアルが執筆された。

旧マルキストにとって敵は資本主義。

新生マルキストにとっては敵は西洋文化

旧マルキストにとって権力掌握の手段は暴力による政権転覆 ― 
1789年のパリや、1917年のペトログラードのように。

新生マルキストにとって権力掌握に暴力は不要、
ただし長期に渡る忍耐強い作業が必要。

勝利の大前提は西洋人がキリスト教精神を捨て去ること

それは文化教育制度改革派の手中に握られてはじめて実現する

まずは文化 ―「堅牢堅固な要砦」― を支配せよ
さすれば国家 ―「外堀」― は労せずして崩壊する。


ただし新旧両派にとって道徳の定義は変わらなかった
― 改革を促進するものが道徳、妨害するものが不道徳。


ハドソン研究所のジョン・フォントによると、
グラムシが信じていたのは――

「全面的歴史主義」。

つまり、道徳、価値観、真実、規範、
人間の在り方はみな歴史的に異なる時代の産物であるということ。

歴史を飛び越え、人類普遍の真実とされるような絶対的規範は存在しない。

道徳観は「社会によって構築される


その昔ロナルド・レーガンはついうっかりソ連を「悪の帝国」呼ばわりして
はじめて、真のマルクス主義者なら激しい抗議はしないと気がついた。

むろん、その発言は国務省内では大きな波紋を巻き起こしたが。


ホルクハイマーと同時期に
音楽批評家テオドール・アドルノ、
精神分析学者エーリッヒ・フロム、
社会学者ウィルヘルム・ライヒも
学派に入会した。

ところが1933年、突如邪魔者が現われる。

アドルフ・ヒトラーが日の出の勢いでベルリンを掌握。

フランクフルト学派の中心層はユダヤ人のマルクス主義者である、
ヒトラーの第三帝国にはそぐわないに違いない。

というわけで彼らはイデオロギーごとアメリカへ移住した。

そのなかには大学を卒業したてのヘルベルト・マルクーゼもいた。

コロンビア大学の援助を受け、
彼らはニューヨークに新フランクフルト学派を設立
再び総力を結集して
自分たちに避難場所を与えてくれた国の文化破壊にとりかかった


彼らの編み出した数ある文化闘争新兵器のなかに批判理論がある。

いかにも善意あふれる名前に聞こえるが、その実体ときたら善意とはほど遠い。

ある研究者は批判理論の定義をこう述べる。


西洋文化の主な要素完全否定する批評。

キリスト教、資本主義、権威、家族、家父長制、階級性、道徳、伝統、
性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義、因習、
保守主義、何から何まですべて


批判理論の下では同じことが繰り返し主張される

例えば、西洋はこれまで出会ったすべての文明・文化を抹殺してきた。

西洋社会は人種差別、性差別、移民排斥、外国人嫌い、同性愛嫌い、反ユダヤ、
ファシズム、ナチズムが一堂に会した歴史のショールームである。

西洋の犯した数々の悪行はキリスト教に形成された西洋社会の特質による。

いい例が現代の「攻撃政治」で、
「後見人」や「選挙運動コンサルタント」は
ひたすら対立候補を攻撃するだけで、
決して自陣候補を擁護してはくれない、と。

さらに批判理論はホロコーストの共謀者として
ビウス十二世を容赦なく非難する。

たとえ告発が嘘だとの証拠がどっさりあっても


結局、批判理論は
「文化的ペシミズム(厭世感・悲観論)」を惹起(じゃっき)した。

人々は豊かさと自由を享受しながらも
疎外感、絶望感のようなものを覚え、
社会や国家は差別的で忠誠を誓うに値しないと思いはじめた。

新生マルキストたちは、
この文化的ペシミズム革命の必須条件と考えていた


批判理論の衝撃を受け、
史上最高に恵まれていたはずの60年世代の多くが、
自分たちは耐えがたき地獄に生きていると確信した。

マクガバン上院議員やダグラス最高裁判事、『ワシントン・ポスト』まで
魅了した緑色革命のなかで、チャールズ・ライクは
全米の高校に充満する「殺気立った雰囲気」に言及する。

コロンバイン高校(銃乱射)事件の30年も前の話だ。

銃やナイフを指しているわけではない ――


試験やテストは暴力の一種。

体育の強制も苦手な者や不安な者にとっては暴力と同じ。

生徒は許可なく廊下に出てはいけないという規則も暴力なら、
無理やり授業を聞かされるのも、
自習室での勉強を強制されるのも
暴力だ。


エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』も、
ウィルヘルム・ライヒの
『ファシズムの大衆心理』『セクシャル・レボリューション』も
批判理論を反映している。

が、最も多大な影響を与えたのが 権威主義的パーソナリティである。

フランクフルト学派の集大成とも言うべきこの本で、
マルクスの経済決定論文化決定論に置き換えられた

裕福で一家そろってクリスチャン、父親が権威主義的という家庭に育った子供は
独裁的な人種差別主義者に育つという。

ウィスコンシン政策研究所の上席研究員チャールズ・サイクスは
『権威主義的パーソナリティ』を
「ブルジョワ社会に対する断固たる告発だ。
ちょっと前まで単なる時代遅れとみなされていた事象を、
ふいにファシスト的かつ歪んだ形態とこじつけた」
と評する。


マルクスが資本家階級を目の敵にしたのに対し、
フランクフルト学派中産階級を目の敵にした

民主主義を生んだのが中産階級だという事実も、
モスクワ在住の同志をモスクワ時代のヒトラーから守ってくれたのが
英国中産階級だという事実も関係ない。

ナチスから逃れたアドルノ率いる一行に安息の場を提供したのが
アメリカ中産階級だという事実も。

真実はどうでもいい

というより、彼らのイデオロギーだけが真理を定義づける


ファシズムの営巣地を家父長制家族に見出したアドルノは、
今度はその生息環境 ― 伝統文化 ― をこう鑑定した。


「ファシズムへの感染は中産階級に典型的な現象で、
『文化に内在する』とも言える。

よって、そのような文化にすっかり順応した中産階級こそ、
最も偏見に満ちた層と考えられる」


かつてエドマンド・バークは
「大勢の人々を一枚の起訴状で告発することはできない」と書いた。

しかしアドルノフランクフルト学派はまさにそれをやってのけた。

愛国主義で昔気質の父親が実権を握る家庭に育った子は
みな潜在的ファシスト、ナチである、と事もなげに断じたのだ。

保守的キリスト教文化がファシズムを生むわけだから、
その文化にどっぷり浸かって育った連中は
ファシスト性向が強いと警戒せねばならない、と。


こうした思想左翼に採り入れられた

60年代前半のうちに大学紛争を糾弾する保守派や識者は
「ファシスト」の烙印を押されはじめた。

ベビーブーマーたちは知らず知らずのうちに
1943年ソ連共産党中央委員会の発した党是通りに
動くこととなる
 ――


党員および党指導部は引き続き
党批判者の活動妨害、信用失墜に励むこと。

手に負えぬような場合
ファシストナチユダヤ人排斥者の
レッテルを張ること・・・


繰り返し反復することにより、
われらの指示するものが大衆にとっての「真実」となる。




うっひょー \(◎o◎)/!

これでしたか、中韓や左翼連中が、確たる証拠や定義もなく、保守や日本や欧米や安倍首相(笑)などをファシスト、ナチス、軍国主義、差別主義呼ばわりするのは・・・

そういうアンタこそが最もファシスト的で、軍国主義的で、差別主義的で・・・なんですけどね。

というか、アルカイダ、タリバン、IS(イスラム国)なんかもソックリそのままですねぇ・・・


いったい、フランクフルト学派というのは、何を目的としているのか、己にも解かっていないというか、認識そのものが無いんじゃないかという気がしてきます。


そもそもの発端は、マルクスが祖国を亡くした貧しいユダヤ民族であるという潜在意識が、権力打倒に限らず、国家という枠そのものを無くしてしまえば、祖国を持たない者が差別されない、なんてところから出た思想を発展させたのだと思いますが、フランクフルト学派になると、もう、IS と一緒の思考回路ですねぇ・・・


うーん、ユダヤ民族もシリアなどの難民も IS も、共に中東の民族ですからね、思考回路が同じなのは当然か!

もちろん、全部ではありません。“その中の一部の人たち” です。


60年代以降、
こうして敵に悪党あるいは精神病者のレッテルを張るのが
左翼最大の武器となった。

精神科医でダッカのトーマス・サスはこれを秘密の定理と呼ぶ。

「貶(おとし)めたいと思う人間を『精神病』呼ばわりする」と。

むろん、裏にあるのは政治的思惑。

われわれの社会は生来の偏見をなくすために治療が必要だと言いたいわけだ。

フランクフルト学派による偏見の研究
クリストファー・ラッシュはこう評価する――


偏見とは権威主義的性格に由来する精神疾患だ
と唱える同書の主張は、
アメリカ人を
― まるで全員が精神病院収容者だと言わんばかりに ―
無理やり集団サイコセラピーにかけたという点だけをとっても、
唾棄すべき思想である


これが「セラピー大国」の根源だ 
― 罪や過ちは病気または反社会行動と再定義され、
精神科医が僧侶に取って代わる。

アドルノの言うように
ファシズムが「文化に内在する」というなら、
4、50年代の「神の国」文化のなかで育ったわれわれ世代こそ、
産声を上げた瞬間から偏見に浸かっていましたと告解し、
治療を受けねばなるまい。


もう一点、ホルクハイマーアドルノ洞察力を発揮したのは、
文化の主導権は哲学的論拠ではなく
心理学的条件づけによって掌握されると気づいた点にある。

アメリカの子供たちは学校で、
差別的な親の教えに従ってはいけません、
新しい道徳観を大事にしましょう、
と条件づけられた。

ほとんどの国民はフランクフルト学派など知らないが、
その思想は 4、50年代の教員養成大学ではすでに有名だった。


知識や技能の習得より正しい態度を表明できる子にしつけることが肝要だ、
と学派は公言していた。

アラン・ブルームは著書『アメリカン・マインドの終焉』で
「アメリカの高校生の教養レベルは世界でも最低ランク」、
いくつかの試験科目では参加国中最低点、
ただし環境問題に関してだけは最高点を記録した
と述べ、フランクフルト学派の成功を立証している。

今日、親は子供を公立学校にやるのは金の無駄遣いだと
感じているのではなかろうか。

勉強などしないのだから。

しかし学派にとっては大成功だ 
― 公立学校の卒業生はみな正しい態度を身につけている。

そして今度は大学のオリエンテーションで
キャンパスじゅうに浸透した新しい価値観を教えられる 
― 映画『暴力脱獄』の看守が言ったように「しっかりな」と。


改革派
いかにして古臭い価値観を捨てさせ
新しい価値観を吹き込むのに成功したのか


真珠湾直後は陸海空軍とも入隊志願者が殺到し、
農家の少年ばかりか大学生までもが列を成して並んだものだ。

それが世界貿易センター(WTC)での大殺戮の後は、
まだ報復攻撃も始まらないうちに
全米のキャンパスで反戦集会が開かれた。


もっとも、学校教育以上に若者世代に大きな影響を与えたのは
ニュー・メディア ― テレビ、映画 ― である。

自由議会財団・文化保護局長のウィリアム・リンドによると――


娯楽産業は・・・
マルクス主義の文化思想に完全に同化し、
単に説法を説くだけではなく寓話までこしらえ広めている― 
・ 弱い男を叩きのめす強い女、
・ 親より賢い子供、
・ 流れ者に諭される堕落した聖職者、
・ 白人の下級生からいじめを受ける黒人上級生、
・ 堂々と普通の生活を送る同性愛カップル。

どれもこれも愚にもつかぬ作り話だが、
彼らの手にかかると
現実の世界よりはるかに真実らしく見えてしまう


改革が人々の思考をどう変化させたか判断するため、
『波止場』、『真昼の決闘』、『シェーン』 等、
50年代の映画に反映された価値観と、
最近の主な映画のそれとを照らし合わせてみよう。

2000年のアカデミー賞授与式で最も多くの部門にノミネートされたのは
『アメリカン・ビューティー』と『サイダー・ハウス・ルール』の二作だった。


『アメリカン・ビューティー』はケヴィン・スペイシーを主役に据え、
アメリカの中流家庭をモラルの荒廃地として描いている。

悪役は同性愛志向を押し殺し、
ナチの記事を収集し
殺人に走る元海兵隊員。

『サイダー・ハウス・ルール』ではマイケル・ケインが
世の中の偏見に立ち向かう物柔らかな堕胎医を演じている。

アメリカの娯楽産業は文化闘争における大砲であると同時に、
若者を条件づけるスキナ―箱の役割も果たしている。


50年代、フランクフルト学派の思想は
ホルクハイマーとアドルノの
退屈でくどい筆致のせいで大衆受けしなかった。

そこへ入会してきたのが
元戦略事務局(OSS)諜報員にしてブランダイス大学教授、
革命を有言実行する野心を抱いた
ヘルベルト・マルクーゼである。

マルクーゼはホルクハイマーの問い
― 来るべき文化革命で
プロレタリアートの役を演じるのは誰か 
― 
答えを与えた



マルクーゼが候補に挙げたのが
― 若い過激派、フェミニスト、黒人運動家、ゲイ、社会的孤立者、
第三世界の革命家、
その他西洋に迫害されたと憤るあらゆる被害者たち

プロレタリアートに代わって
西洋文化を破壊するのは彼らだ
と。

革命の新兵補充に関してはグラムシも
「歴史的に反主流派とされる層・・・
経済的に虐げられた人々はおろか、女性から少数民族『犯罪者』まで」
すべて含むと考えていた。

チャールズ・ライクの主張はマルクーゼとグラムシの請け売りである。

「新世代の若者はみな疎外感にもがき苦しんでいるからこそ、
黒人や貧しい人々、ボニーとクライド、世の中の敗者に共鳴する」と。

奇遇なことに、二人の異常殺人者をロマンたっぷりに描いた映画
『俺たちに明日はない』がアカデミー賞にノミネートされた1968年、
ライクのいう二人の「敗者」、
サーハン・サーハンとジェイムズ・アール・レイが
ロバート・ケネディ、キング牧師暗殺によって不朽の名声を勝ち得た。


かつて社会の崩壊は書物や言論を足がかりになされたが、
マルクーゼは、セックスドラッグがより強力な武器と考えた。

著書『エロス的文明』のなかで
彼は「快楽原理」を全面的に認めよと提唱した。

文化的規範はすべて拒絶(本人曰く「偉大なる拒絶」)せよ、
そうすれば「多種多様な邪悪」の存在する世界が創出できると。


溢れんばかりのベビーブーマーがキャンパスに押し寄せ、彼の時代が到来した。

マルクーゼの本は売れに売れ、彼は教祖様となった。

1968年、パリで学生紛争が起こったとき、横断幕には
「マルクス、マオ(毛沢東)、マルクーゼ」と書かれていた。


戦争よりセックスをはマルクーゼ自身の生んだスローガンである。

著書『一次元的人間』で彼は「教育的専制」を提唱。

また「抑圧的寛容」に対し「開放的寛容」、
すなわち「右翼に対する不寛容と左翼に対する寛容」を要求している。

すっかりマルクーゼにはまった60年代の学生たち
ヴェトナム戦争擁護派を黙らせ、ヴェトコンの旗を振る過激派を歓迎した。

現在に至ってもいくつかの大学では、保守派の人間より
仮出獄中の殺戮者の講演のほうがより盛況だ。

右翼が猛威を振るっていると決めつけ、
左翼なら大目に見る罪でも右翼なら晒し首、という
二重基準(ダブル・スタンダード)こそ 「抑圧的寛容」ではないか。

マルクーゼは著書弱肉強食社会本音を暴露している――

文化革命を正しく論じることは誰にでもできる。

なぜならあらゆる文化制度に向けられた抗議だから・・・

一つだけ確実に言えることがある。

伝統的革命思想、伝統的革命戦略はもはや通用しないということだ。

そうしたやり方は時代遅れ・・・

われわれが着手すべき革命は、
社会制度を広汎に渡って解体するような革命である。


この「社会制度の広汎に渡る解体」の意味するところは
アメリカ撲滅にほかならない。

グラムシ同様、マルクーゼもマルクスを超越した。

打倒資本家階級を目指し労働者が決起する、という思考は過去のこと。

今やマルクーゼとその仲間が西洋文明に引導を渡そうとしていた。

文化制度を支配し、革命、教化の手先とすることによって。

作家で『ニュー・クライテリオン』誌編集者のロジャー・キンボールは
こう述べる――


西洋社会というコンテクトにおいて
長期的制度改革とは 
― マルクーゼ琉に言うと ― 
すでに確立した制度内に身を置いての働きかけ
を意味した。

主としてそうした手法 
― 対決というよりむしろ徐々に侵入潜入する ― 
によって、
マルクーゼら急進派の目指すカウンターカルチャーの夢が実現した。


文化マルキストにとって何はさておき最大の目標は、
独裁制の根源性差別社会不正温床たる家族制度
崩壊だった。


伝統的家族に対する嫌悪はマルキストにとって新しいものではない。

マルクス自身、著書『ドイツ・イデオロギー』で、
家父長制家族の長はまずは妻子を財産と考えると述べている。

    これ、西洋に限らなかったんですけどねw
     イスラム圏なんかでは、いまだにそうだし。

エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』のなかで
女性差別の根源は家父長制にあると論じ、フェミニストの信念を普及させた。

エーリッヒ・フロムは
性差は固有のものではなく西洋文化によって創出されると主張し、
フェミニズムの始祖となった。

    鼻で笑っちゃうしかないです、フン!w

ウィルヘルム・ライヒにとって
「権威主義的家庭は権威主義的国家の縮小版・・・
帝政家族は帝政国家で繁殖する」。

アドルノにとって家父長制家庭はファシズムのゆりかごである。


家族から父親を追放するため、
フランクフルト学派は別な選択肢 
― 母親が一家を支配する家母長制、
さらに家庭のなかで男女がときに役割を交換、あるいは完全に逆転させる
「両性具有」制― を推奨した。

女性ボクサー、女性戦士、女性のラビや司教、女性の神、
デミ・ムーアの『G.I.ジェーン』、
『エイリアン』で怯える男性兵士を励ます
ランボー顔負けのシガニー・ウィーヴァー。

その他、
タフで攻撃的な女と戦災で傷つけやすい男を描くすべての映画、演劇が
フランクフルト学派と
彼らが手を貸したフェミニスト革命の成功を証明している。


ルカーチ同様、ウィルヘルム・ライヒも、
家族の破壊は革命的性政策と早期の性教育を通じて達成される
と考えていた。

アメリカで小学校から性教育を行うようになったのは彼らのおかげである。




日頃、疑問に思っていた答えの総てが書かれてある気がします (^^;

マルクスの思想は解からないでもないですし、想像もできますが、昨今の左翼連の言動はどうにも理解しがたい。

無理やり “敵” を創り出すために “犠牲者” を捏造している、その目的は何か?

たぶん、日本の共産党や民主党や社民党のごとく、なんでもかんでも屁理屈をつけて反対すること、それ自体が目的であり、生きがいなんでしょうね、フランクフルト学派www

5歳児の第二次反抗期 \(^o^)/


ちなみに、このブログのあちこちに書いていますが、「女房が一家の財布を握っているのが普通」というのは、世界広しと言えども日本、ただ一国です。

天照大神(=女=太陽神)を頂点に捉えている日本民族は、女性蔑視も家父長制もありません。女房は “山の神” であり、あるいはまた “カカア殿下” という、エライお方なのですw


日本以外は、太陽=男ですからね、その辺の根源的意識が違うのでしょう。

なので、下手に西洋かぶれやイスラムかぶれや孔子かぶれなんかで、フェミニストを気取ったりすると、陰で笑われますよw


日本の米騒動の多くは、おっかさん達が先導した百姓一揆だとか、何かで読んだ気がします。


◆ 中世日本は世界で最も現代思想に近かった
  (natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-1685.html )

◆ 中世日本の夫婦のあり方(1)夫と妻と妾
  (natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-1686.html )

◆ 中世日本の夫婦のあり方(2)夫婦別財 
  (natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-1687.html )


フランクフルト学派

前篇
フランクフルト学派
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2017-11-01 )

中編
若狭和朋著日本人が知ってはならないらい歴史より
フランクフルト学派の一派が戦後の日本を改造した
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2017-11-01-1 )

後篇
パトリック・J・ブキャナン著病むアメリカ滅びゆく西洋より
手に負えない場合は
ファシスト、ナチ、ユダヤ人排斥者のレッテルを張ること

(―― )



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