◆ 第5章 (3) ティーゼイションが社会的対象を喪った近代 [ ❒ 新しい神の国(古田博司著)]
ROYAL REPUBLIC ~ The Making Of 'Save The Nation' Video (2013)
古田博司著『新しい神の国』
第5章 神々の復権
3. ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
ところで、ティーゼイションにもどるが、近世のそれは町家の戯作家たちが担い、現在ではブロガー や 2ちゃんねらーたちが、インターネット上でそれを縦横無尽に駆使していることは、前述の通りである。
しかし、ここでふと気がつくのだが、その間、日本近代における彼らはいったいどこに居たのだろうか。
1910年代、維新前を知る世代の多くが世を去り、当時の若者たちにとって江戸が外国同様の異世界になりつつあった頃、江戸情緒が再び入口に膾炙(かいしゃ)され、文壇には長井荷風が登場し、多いに評判を得ていたときがあった。
荷風は若い頃に歌舞伎座の狂言作者の見習いになったり、年をとってからも江戸の戯作家に憧れ、洒落本や黄表紙をよく読んでいたことが、その日記に見える。
しかし不思議なことに、荷風のどの作品を読んでも戯作は一作もない。
荷風の筆致は生真面目そのものであり、冒頭は戯作風かな、と思っても、やがて描写は堅く変わっていく。
たとえば「妾宅」(1912年)などという、ふざけた題の作品がある。
などと、本当に蓄えていたかどうかも分からないが、自分(珍々先生)の妾についてまず戯作風に洒落てはじまる。
ところが後半部に来ると、なんという生真面目さであろうか。
などと、日欧比較文化論を延々と始めてしまうのである。
この精神は、江戸の戯作家などではなく、近代の真面目主義に心底おかされた学者先生のものであろう(陰で艶本を書いていたとしてもだが・・・)。
本物の戯作者たちは、はてどこに行ってしまったものか。
当時の夏目漱石・森鴎外などは、西洋小説仕込みの個人主義文学を書いている真っ最中であるから、期待できるとしても荷風散人以にいるとは思われないのだが、残念ながら彼は時のティーゼイターではないようである。
1920年代に入ると、福田恆存(つねあり)氏にいわせれば、孤独感をはらんだ個人主義文学の絶頂期は漱石や鴎外などではやばやと終わってしまい、あとは昭和まで延々と私小説が続くだけだという。(「個人主義からの逃避」1957年、『福田恒存全集』第4巻、文芸春秋、1987年)
そこで私小説の中に戯作家がいるかもしれないので、次に探してみることにしたい。
1920年代に活躍した葛西善蔵は漱石も鴎外もまったく受けつけず、既に1910年代から創作活動に入っていたが、喀血した自らを、
「自分もこれでライフの洗礼も済んだ」(「哀しき父」1912年、復刻版『葛西善蔵全集』第1巻、文泉堂書店、1974年)
などとお茶らけて見せているのは、結構戯作風に見える。
この人物の作品は武田泰淳が好きで、武田の全集に何度か名前が出てくるのだが、後世ほとんど評価されず、日本文学史の闇に消えた。
次に私小説家として嘉村磯多(かむらいそた)がいる。
彼にも全集があるが、身の回りのこと一辺倒の小説で、やはり歴史に消された。
女房と不具合があり、惚れた女と駆け落ちした日々を綴るつまらない小品に、
などというのも結構戯作的だが、戯(おど)けぶりがなんともいえず弱々しい。
ただ、茶化す対象が江戸の戯作家とは違い、自分自身であることに注目したい。
次は、いわずと知れた太宰治である。
太宰になると、茶化しは完全に自分にしか向かわなくなってくるのが特徴的である。
太宰の若い頃の小品で、雑誌『日本浪漫派』に掲載されたものに
などとあるのが、典型的であろう。
つまりここまで辿ってわかることは、近代の戯作家はみなティーゼイトする対象を社会に喪ってしまい、自分たちばかり茶化しの鞭がむかうという傾向なのである。
こういうのを現代では自虐というのだろうが、彼らが自虐的な筆をもっぱらにしていたというのは後の世の解釈であり、当時の彼らは精いっぱい己をティーゼイトしていたのではないか。
そうすることが文学だと思いこみ、江戸の戯作の伝統を立派に受け継いでいたのではないだろうか。
そう考えねば、どうしてあのように下手な作家のつまらない作品が、日本文学史上に名をなした少数の作家たちの間に厖大に澱(お)り留まっているのか、訳がわからないのである。
第5章 神々の復権
3. ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
ところで、ティーゼイションにもどるが、近世のそれは町家の戯作家たちが担い、現在ではブロガー や 2ちゃんねらーたちが、インターネット上でそれを縦横無尽に駆使していることは、前述の通りである。
しかし、ここでふと気がつくのだが、その間、日本近代における彼らはいったいどこに居たのだろうか。
1910年代、維新前を知る世代の多くが世を去り、当時の若者たちにとって江戸が外国同様の異世界になりつつあった頃、江戸情緒が再び入口に膾炙(かいしゃ)され、文壇には長井荷風が登場し、多いに評判を得ていたときがあった。
荷風は若い頃に歌舞伎座の狂言作者の見習いになったり、年をとってからも江戸の戯作家に憧れ、洒落本や黄表紙をよく読んでいたことが、その日記に見える。
しかし不思議なことに、荷風のどの作品を読んでも戯作は一作もない。
荷風の筆致は生真面目そのものであり、冒頭は戯作風かな、と思っても、やがて描写は堅く変わっていく。
たとえば「妾宅」(1912年)などという、ふざけた題の作品がある。
「諦めるにつけ悟るにつけ、流石(さすが)はまだ凡夫の身の悲しさに、珍々先生は昨日と過ぎし青春の夢を思ふともなく思ひ返す。
不図(ふと)したことから、かうして囲って置くお妾の身の上や、馴初(なれそ)めのむかしを繰返して考へる」
(『現代日本文学全集68 長井荷風集(二)』筑波書房、1958年)
不図(ふと)したことから、かうして囲って置くお妾の身の上や、馴初(なれそ)めのむかしを繰返して考へる」
(『現代日本文学全集68 長井荷風集(二)』筑波書房、1958年)
などと、本当に蓄えていたかどうかも分からないが、自分(珍々先生)の妾についてまず戯作風に洒落てはじまる。
ところが後半部に来ると、なんという生真面目さであろうか。
「町中の住ひの詩的情緒を、専(もっぱ)ら便所との其の周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであらう。
西洋の家庭には何処に便所があるか決して分からぬやうにしてある。
習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏蘭西の画家と雖(いへど)も、まだ便所の詩趣を主題にしたものはないやうである」
西洋の家庭には何処に便所があるか決して分からぬやうにしてある。
習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏蘭西の画家と雖(いへど)も、まだ便所の詩趣を主題にしたものはないやうである」
などと、日欧比較文化論を延々と始めてしまうのである。
この精神は、江戸の戯作家などではなく、近代の真面目主義に心底おかされた学者先生のものであろう(陰で艶本を書いていたとしてもだが・・・)。
本物の戯作者たちは、はてどこに行ってしまったものか。
当時の夏目漱石・森鴎外などは、西洋小説仕込みの個人主義文学を書いている真っ最中であるから、期待できるとしても荷風散人以にいるとは思われないのだが、残念ながら彼は時のティーゼイターではないようである。
1920年代に入ると、福田恆存(つねあり)氏にいわせれば、孤独感をはらんだ個人主義文学の絶頂期は漱石や鴎外などではやばやと終わってしまい、あとは昭和まで延々と私小説が続くだけだという。(「個人主義からの逃避」1957年、『福田恒存全集』第4巻、文芸春秋、1987年)
そこで私小説の中に戯作家がいるかもしれないので、次に探してみることにしたい。
1920年代に活躍した葛西善蔵は漱石も鴎外もまったく受けつけず、既に1910年代から創作活動に入っていたが、喀血した自らを、
「自分もこれでライフの洗礼も済んだ」(「哀しき父」1912年、復刻版『葛西善蔵全集』第1巻、文泉堂書店、1974年)
などとお茶らけて見せているのは、結構戯作風に見える。
この人物の作品は武田泰淳が好きで、武田の全集に何度か名前が出てくるのだが、後世ほとんど評価されず、日本文学史の闇に消えた。
次に私小説家として嘉村磯多(かむらいそた)がいる。
彼にも全集があるが、身の回りのこと一辺倒の小説で、やはり歴史に消された。
女房と不具合があり、惚れた女と駆け落ちした日々を綴るつまらない小品に、
「 『行き暮れぬうちに女を遮二無二両親に引き取つて貰つて、僕は浪浪の身にならうてんです。
いづれにせよ早晩旗を巻くとしても、女が郷里にをれば都落ちの口実が設けいいし・・・
松井さん、ずゐぶん私は卑怯でせう。笑つて下さい』
と、私はわざと声高にカラカラと笑つた」
(「神前結婚」1933年、『嘉村磯多全集』第2巻、白水社、1934年)
いづれにせよ早晩旗を巻くとしても、女が郷里にをれば都落ちの口実が設けいいし・・・
松井さん、ずゐぶん私は卑怯でせう。笑つて下さい』
と、私はわざと声高にカラカラと笑つた」
(「神前結婚」1933年、『嘉村磯多全集』第2巻、白水社、1934年)
などというのも結構戯作的だが、戯(おど)けぶりがなんともいえず弱々しい。
ただ、茶化す対象が江戸の戯作家とは違い、自分自身であることに注目したい。
次は、いわずと知れた太宰治である。
太宰になると、茶化しは完全に自分にしか向かわなくなってくるのが特徴的である。
太宰の若い頃の小品で、雑誌『日本浪漫派』に掲載されたものに
「ぼくは新しい倫理を樹立するのだ。
美と叡智とを規準にした新しい倫理を創るのだ。
美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。
醜と愚鈍とは死刑である。
さうしてたちあがつたところで、さて、私には何が出来た。
殺人、放火、強姦、身をふるはせてそれらへあこがれても、何ひとつできなかつた。
立ちあがつて、尻餅ついた」
(「もの思ふ葦(その一)」1935年、『太宰治全集』第10巻、筑摩書房、1977年)
美と叡智とを規準にした新しい倫理を創るのだ。
美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。
醜と愚鈍とは死刑である。
さうしてたちあがつたところで、さて、私には何が出来た。
殺人、放火、強姦、身をふるはせてそれらへあこがれても、何ひとつできなかつた。
立ちあがつて、尻餅ついた」
(「もの思ふ葦(その一)」1935年、『太宰治全集』第10巻、筑摩書房、1977年)
などとあるのが、典型的であろう。
つまりここまで辿ってわかることは、近代の戯作家はみなティーゼイトする対象を社会に喪ってしまい、自分たちばかり茶化しの鞭がむかうという傾向なのである。
こういうのを現代では自虐というのだろうが、彼らが自虐的な筆をもっぱらにしていたというのは後の世の解釈であり、当時の彼らは精いっぱい己をティーゼイトしていたのではないか。
そうすることが文学だと思いこみ、江戸の戯作の伝統を立派に受け継いでいたのではないだろうか。
そう考えねば、どうしてあのように下手な作家のつまらない作品が、日本文学史上に名をなした少数の作家たちの間に厖大に澱(お)り留まっているのか、訳がわからないのである。
新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )
第5章 神々の復権
1. 日本の茶化し文化
2.2ちゃんねらーのティーゼイションと左翼の堕落
3.ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
4.自己をテイーゼイトする私小説
5.何を言っているのか分からない人たち
6.大本営的虚構の背景
◆ 日本は「東アジア」の一員じゃない
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