◆ 第1章 (6) 日本の神々の二つの系譜 [ ❒ 新しい神の国(古田博司著)]
WANGMO ~ Sweetheart (2013)
古田博司著『新しい神の国』
第1章 多神教的世界観の勧め
6. 日本の神々の二つの系譜
さて日本の神々には、管見ではどうも2つの系譜があるようで、『古事記』神代15巻でいうと
・ 1 巻から 10巻までの神々と
・11 巻から 15巻までの神々は、
どうも性格が違っている。
文献上はタカミムスビの神を高木の神と言い換える 11 巻目が、史料の継ぎ目であることは本居宣長も、
「初メ稗田ノ阿禮が詔命を蒙(カガフリ)し時に、
・高御産巢日ノ神と申シ傳へたる本(フミ)と、
・高木ノ神と申シ傳へたる本(フミ)と、
二品の本(フミ)に據(ヨリ)けむ」
(『古事記伝』 一三之巻、神代十一の巻、天若日子の段)
と、指摘している。
その前段の神々は主役が出雲系で、下方の黄泉の国と深い関係を持っていて、その神々の職能は、主に穢れ祓いである。
後半の神々の方は主に大隅 (薩摩) 系で、上方の高天の原と連携を保っており、その神々の職能は、軍事も含めた神事の分業と思われる。
分業というのは、
・アメノコヤネの神は神言の伝達係、
・アメノイハトワケの神は守衛係、
・アメノウズメの神は鎮魂祭の係、
・タマノヤの神の玉造り、
・ホデリの神は門番と行列の露払い、
・アメノオシヒの神とアマツクネの神は戦闘係
といった按排(あんばい)をさしている。
ひょっとしたら、この後者の族(うから)の方は、カースト制度のごときものをもった分業の民が列島にやってきて、そこで変容したのかもしれぬ。
精神性は前者の方が高いが、後者の方はきわめて実用的である。
この二系統の神々が実に絶妙の筆で融合されている。
それが『古事記』という神の書だと見ている。
そのような無限増殖する偶像なき神々は、人代の 16巻目からは実に無造作に人間と結合されていく。
その間には、契約もなければ報奨による取り立てもない。
ただただ直截的に連結されていくのである。
したがってわれわれ人間の魂は荒神にもなれば、和魂にもなり、幸魂たるときもあれば奇魂たることもある、ということであろうか。
職責には順応的であり、実用的ではあるが、その行いに個体としての痕跡を残さない。
個性的であることなど、大して有意味なことではなく、個性的であるということはときとして、多数の無言の非難の眼差しにさらされることがある。
集団的などという概念では括れない。
その意志は無限に広がり、有限の隙間を埋める。
それが集団結束的に見えるだけだろう。
こうして気がついたときには、私たちの作った製品は世界に溢れ、商品はマスキングされて東アジアを覆い、浪漫(ローマン)は世界中のテレビ画面から溢れ出した。
スクナビコナの神という神がいて、この神は外来魂である。
異形の神であり、オホクニヌシの右腕となる。
岩や草木にいたるまで、荒ぶる神々を鎮め、禍を祓い、獣や虫の害を除き、やるべき仕事をことごとくやり終えると、また海の彼方へと去っていった。
この神もまた、無限に増殖するわれわれの身体である。
祖先との過ぎし彼方を顧みれば、このような外来魂にいくたび授けられたことだろうか。
われわれの魂は外国に対して閉鎖的であるとか国際的でないという人々がいるが、さにあらず、外来魂は寄り来たって、われわれの身体を豊穣の身体へと作り替えてくれるのである。
そのような魂には歴史上枚挙に遑がない。
近世近代でいえば、
・シーボルトは長崎に医術と博物学を伝え、
・クラーク博士は北海道の少年たちを励まし、
・ベルツ水のベルツ博士からは風土病や温泉の効能を教わった
ではないか。
われわれは自己の身体を否定的に見る必要はないのであり、そのような言説の反復には、もう実はうんざりしているのだ。
といって、啓蒙するつもりはない。
要するに、一神教の信仰からさまざまな世界観を造りあげてきた西洋の模倣をするばかりでは、ネタ切れワールドはさらに擦り切れ、今度は劣化しきった西洋のネタまで仕入れる有様になってくる。
そういうインテリが今日でもどんなに多いことだろうか。
すでに象牙の塔は崩壊しているのに、西洋帷子(からびら)を凝着せしめた無用の将が、 哀れまさりゆく荒蕪の地で乱舞しているというべきか。
これぞ、つわものどもが夢のあと、ではないか。
第1章 多神教的世界観の勧め
6. 日本の神々の二つの系譜
さて日本の神々には、管見ではどうも2つの系譜があるようで、『古事記』神代15巻でいうと
・ 1 巻から 10巻までの神々と
・11 巻から 15巻までの神々は、
どうも性格が違っている。
文献上はタカミムスビの神を高木の神と言い換える 11 巻目が、史料の継ぎ目であることは本居宣長も、
「初メ稗田ノ阿禮が詔命を蒙(カガフリ)し時に、
・高御産巢日ノ神と申シ傳へたる本(フミ)と、
・高木ノ神と申シ傳へたる本(フミ)と、
二品の本(フミ)に據(ヨリ)けむ」
(『古事記伝』 一三之巻、神代十一の巻、天若日子の段)
と、指摘している。
その前段の神々は主役が出雲系で、下方の黄泉の国と深い関係を持っていて、その神々の職能は、主に穢れ祓いである。
後半の神々の方は主に大隅 (薩摩) 系で、上方の高天の原と連携を保っており、その神々の職能は、軍事も含めた神事の分業と思われる。
分業というのは、
・アメノコヤネの神は神言の伝達係、
・アメノイハトワケの神は守衛係、
・アメノウズメの神は鎮魂祭の係、
・タマノヤの神の玉造り、
・ホデリの神は門番と行列の露払い、
・アメノオシヒの神とアマツクネの神は戦闘係
といった按排(あんばい)をさしている。
ひょっとしたら、この後者の族(うから)の方は、カースト制度のごときものをもった分業の民が列島にやってきて、そこで変容したのかもしれぬ。
精神性は前者の方が高いが、後者の方はきわめて実用的である。
この二系統の神々が実に絶妙の筆で融合されている。
それが『古事記』という神の書だと見ている。
そのような無限増殖する偶像なき神々は、人代の 16巻目からは実に無造作に人間と結合されていく。
その間には、契約もなければ報奨による取り立てもない。
ただただ直截的に連結されていくのである。
したがってわれわれ人間の魂は荒神にもなれば、和魂にもなり、幸魂たるときもあれば奇魂たることもある、ということであろうか。
職責には順応的であり、実用的ではあるが、その行いに個体としての痕跡を残さない。
個性的であることなど、大して有意味なことではなく、個性的であるということはときとして、多数の無言の非難の眼差しにさらされることがある。
集団的などという概念では括れない。
その意志は無限に広がり、有限の隙間を埋める。
それが集団結束的に見えるだけだろう。
こうして気がついたときには、私たちの作った製品は世界に溢れ、商品はマスキングされて東アジアを覆い、浪漫(ローマン)は世界中のテレビ画面から溢れ出した。
スクナビコナの神という神がいて、この神は外来魂である。
異形の神であり、オホクニヌシの右腕となる。
岩や草木にいたるまで、荒ぶる神々を鎮め、禍を祓い、獣や虫の害を除き、やるべき仕事をことごとくやり終えると、また海の彼方へと去っていった。
この神もまた、無限に増殖するわれわれの身体である。
祖先との過ぎし彼方を顧みれば、このような外来魂にいくたび授けられたことだろうか。
われわれの魂は外国に対して閉鎖的であるとか国際的でないという人々がいるが、さにあらず、外来魂は寄り来たって、われわれの身体を豊穣の身体へと作り替えてくれるのである。
そのような魂には歴史上枚挙に遑がない。
近世近代でいえば、
・シーボルトは長崎に医術と博物学を伝え、
・クラーク博士は北海道の少年たちを励まし、
・ベルツ水のベルツ博士からは風土病や温泉の効能を教わった
ではないか。
われわれは自己の身体を否定的に見る必要はないのであり、そのような言説の反復には、もう実はうんざりしているのだ。
といって、啓蒙するつもりはない。
要するに、一神教の信仰からさまざまな世界観を造りあげてきた西洋の模倣をするばかりでは、ネタ切れワールドはさらに擦り切れ、今度は劣化しきった西洋のネタまで仕入れる有様になってくる。
そういうインテリが今日でもどんなに多いことだろうか。
すでに象牙の塔は崩壊しているのに、西洋帷子(からびら)を凝着せしめた無用の将が、 哀れまさりゆく荒蕪の地で乱舞しているというべきか。
これぞ、つわものどもが夢のあと、ではないか。
新しい神の国 ☆ もくじ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )
第1章 多神教的世界観の勧め
1.ホッブズ・ワールドのロック・ソサエティー
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-2 )
2.極限の身体
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-3 )
3.無限増殖する偶像なき身体
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-4 )
4.悲しみの島ハワイ
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-5 )
5.偏在する神々の魂
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-6 )
6.日本の神々の二つの系譜
(― )
日本は東アジアの一員じゃない
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