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◆ 文系教授は「考えない足」 www [  ❒ 新しい神の国(古田博司著)]

正論
百田尚樹さん講演を阻んだ大学人は
何も考えていない

文系教授は考えない足
筑波大学大学院教授・古田博司

2017.07.26
(www.sankei.com/column/news/170726/clm1707260005-n1.html )

古田博司・筑波大学大学院教授
古田博司・筑波大学大学院教授


幸か不幸か大学教授になってしまった私は、定年を間近に控えてとてつもない事実に気づいてしまった。

大学の同僚の多くが、「考える」ことをしていないのではないか。

そう思うと彼らの論文が急に色あせてみえた。


ディシプリン(分野の規範)に沿って、西洋人の学説を紹介し、日本人の研究を組み合わせ、気の利いたことを一言二言付け加え、さらなる史料の発見が待たれるとか希望的観測を述べる。

これでは、これだけ勉強しました、という小学生の「勉強日誌」と変わらないのではないか。


民族に存在する脱落した命題


パスカルは「人間は考える葦(あし)」だと言ったが、われわれ文系教授は「考えない足」だ。

調査し史料をかき集めて一人悦に入る。


大学教授の講義には、
(1)毎年同じような「読経型」
(2)勝手気ままな「演説型」
(3)学生にやらせる「トレーニング型」
の3類型しかない。

驚愕(きょうがく)した私は、直ちに担当ゼミをトレーニング型に変えた。


毎回出題し「考えること」を誘発するのだ。

いわく
「古代エジプトにはなぜ歴史書が一冊も残っていないのか」
「記憶と記録はどう違うか」
など。

答えを言うと、その瞬間、知識になってしまい考えることにならない。

しかしここは紙面だから、言わないと読者がいらいらするだろう。

だからあえて言う。

民族には関心を持つものと持たないものがあるのだ。


古代エジプト人は歴史に関心を持たなかった。

だから歴史書がなく、碑文やパピルスの断簡ばかりだ。

インカ帝国人は文字に関心を持たなかった。

ならば日本人は?


「奴隷」と「盾」に関心を持たなかった。

だから敗戦奴隷の「シベリア捕囚」を抑留と勘違いして、まじめに働いてしまった。

そこから今、北方領土の共同経済活動でロシア人が何を期待しているのか察しがつくだろう。

「盾」のほうは、作家の百田尚樹さんに教わったのでそのうち彼からオリジナルを聞いてほしい。


コリアンは何に関心を持たなかったのか。

法治と文化だ。

法治がわからないので、弁護士出身の盧武鉉元大統領さえ昔の親日派の子孫から財産を没収してしまった。

無実の証拠が挙がっているのに、加藤達也元産経新聞ソウル支局長を裁判で見せしめにした。


文化はシナ文化しかなかったのでこれもよく分からない。

だから柔道も剣道もウリ(自分たち)が起源だと、文化音痴なことをいう。

これが俗にいうウリジナルだ。(← \(^o^)/)

民族にとって歴史上関心を持たなかったものについては、今に至るもよく分からないのである。


ブロガーは大学教授をしのいだ


ふとテレビを見ると、東大法学部出身、厚生省入省、ハーバード大大学院留学の輝かしい経歴を持つ勉強エリート、豊田真由子衆院議員が「このハゲ~!」と罵声を張り上げている。

このような人を一人でも減らし、インターネットと人工知能(AI)の発達で、やがてご用済みとなる勉強エリートを再活性することに、私は使命を感じているのだ。


インターネットの発達には目を見張るものがあるが、開くと、いつの間にか大学教授を追い越してしまったブロガーがいる。

これは本当のことで、私は『ヨーロッパ思想を読み解く -何が近代科学を生んだか』(ちくま新書)という著作で、ネットでそのようなブロガーを探し、ビジネス・マネジメント学をコーチしてもらった。


大学教授も知らないことは分からないのだから、未知の分野はコーチングで誘発してもらわなければならない。

もちろんダメなブロガーもいる。

韓国について、日本に贖罪(しょくざい)論と同情論しかなかった1990年代、どちらかに寄り添わなければ編集者に本を出すことも拒まれていた時代背景を無視し、私を変節漢のように非難するブロガーがいる。

こういう人は考えていないのだ。

ついでに言っておくと、私は今でも韓国の地形と歴史に同情している。


民間にこそ知性主義は胚胎する


ブロガーも知識同様、玉石混交だが、日本にはもともとそのような人々が伝統的に多数いた。

荻生徂徠が論語を解釈した『論語徴』(宝暦10年)なる書物を著すと、たちまち洒落(しゃれ)者が『論語町』(跋文(ばつぶん)は虚来山人)なるパロディー本を出して茶化(ちゃか)すのである。

もちろんその実力は相当なもので、漢学の素養は抜群だ。

私は日本のそのような伝統を「茶化」と英語の tease (からかって悩ます)にかけ、Teazation=ティーゼーションと呼んでいる。


日本の伝統文化には、外来の理論や理想に対する反骨と挑戦の態度が始めから胚胎されていたのであり、朝鮮では猖獗(しょうけつ)を極めた朱子学も民間のティーゼーションによって矯(た)められたのだった。

だから左翼や「遅れてきた勉強家」たちが、「反知性主義」などと民間の知性をばかにしていたが、いつの間にか掻(か)き消えたであろう。


最後に一言いえば、百田尚樹さんはそのような伝統から出てきたティーゼーターである。

彼の講演を阻んだ一橋大学の学生や教授たちは何も考えていないのだ。


(筑波大学大学院教授・古田博司 ふるた ひろし)




古田博司著新しい神の国
(hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-11-1 )

第 5 章 神々の復権

1. 日本の茶化し文化
  (https://hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-19 )
2.2ちゃんねらーのティーゼイションと左翼の堕落
  (https://hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-19-1 )
3.ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
  (https://hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-20 )
4.自己をテイーゼイトする私小説
  (https://hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-20-1 )
5.何を言っているのか分からない人たち
  (https://hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-20-2 )
6.大本営的虚構の背景
  (https://hawkmoon269.blog.ss-blog.jp/2019-11-20-3 )



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